読書猿 Reading Monkey

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メルマガ名
読書猿 Reading Monkey
発行周期
不定期
最終発行日
2017年11月14日
 
発行部数
1,120部
メルマガID
0000000970
形式
PC・携帯向け/テキスト形式
カテゴリ
ニュース・情報源 > 雑学・豆知識 > その他

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   読 書 猿   Reading Monkey
    第145号 (2冊目の著書号)・改訂版
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。

文中のウェーバーの引用がおかしくいたので、改訂版をお送りします。


■■読書猿『問題解決大全』(フォレスト出版)=============■

 この度、2冊目の著書を上梓したのでお知らせします。

 問題解決大全:ビジネスや人生のハードルを乗り越える37のツール

 判型:A5変形
 出版社: フォレスト出版
 ISBN10: 4894517809
 ISBN13: 9784894517806
 価格: 1,944円(税込)
 発売日: 2017/11/20


 前作『アイデア大全』の続編で、問題解決についての書物です。
 
 『問題解決大全』と『アイデア大全』は、〈問題解決〉と〈発想法〉と
いう隣接した、しかし異なるテーマを扱っていますが、スタイルと志
(動機づけ)を共有しています。


 以下に「まえがき」をお見せします。

---------------------------
『問題解決大全』まえがき:問題解決を学ぶことは意志の力を学ぶこと

◯未来を変えるツール

 本書は、困難や窮状を「問題」として捉え直し、その対処法や目標へ
到達するための手段・方法を発見・実行することで、未来を変える方法
と知恵を集めた道具箱である。
 未来を変えるには、アイデアだけでは足りない。新しい考えは確かに
我々の思考やものの見方を変え、そのことを通じて行動を変える力を持
つ。しかしまた、多くのアイデアは生まれはしたものの、世界に何の影
響も与えずに、そのまま消えていく。これまでにないアイデアを得るた
めに、自身の内なる制約を外して発想を広げたとしても、実現の前に立
ちふさがる制約は、自分の外にも、つまり世界の中にも数多く存在する
からだ。
 自分の外にある制約は、基本的に我々の自由にならない。
 そのため、前著『アイデア大全』(フォレスト出版、2017)では自分の内
にある制約を外す方法を探求したが、本書では自分の外にある制約をど
のように扱うかについて学ぶ。
 アイデアを実現し、未来を変えるためには、我々自身の外へと向かう
必要があるためだ。


◯問題解決はノウハウ以上のもの

 本書は『アイデア大全』とは異なるテーマを扱った書物であるが、そ
の動機づけとスタイルは共通している。
 本書もまた、実用書であると同時に人文書であることを目指してい
る。つまりハウツーを提供するだけでなく、問題解決の歴史を振り返り、
その本質を掘り下げ、ルールをつくり社会をつくる人間という生き物が、
なぜ問題解決を必要とするのかという問いにも答えるべきだと考える。
 問題解決の書物が、実用を目的とすることは当然である。読者が抱え
ている問題、直面している困難、脱しようとしている窮状に対して何の
効果もないのであれば、問題解決という技術はほとんど価値を持たない
だろう。
 しかしまた、問題解決の技術はノウハウ以上のものである。むしろ既
存のノウハウでは歯が立たない状況でこそ、問題解決は要請されるとい
える。
 それまで取り組まれたことのない新しい問題や、旧知ではあるが有効
な手立てが見つかっていない難問に対して、既存の解決策がないからこ
そ、これまでにない解決策を発見し実現する問題解決の技術が必要とな
る。
 未解決の問題の多くは「解決に何が必要か」すらわからぬ問題である。
そうした問題に対処するためには、問題解決の技術は特定の問題や分野
に限定されず、さまざまなニーズに対応できる汎用性を備える必要があ
る。
 もちろん、問題解決は汎用的であることを目指しはするものの、決し
て完全でも万能でもない。
 それはちょうど図書館と似ている。どれほど巨大な図書館もその蔵書
は有限であり、すべての書物を収蔵することはできない。しかし個人の
蔵書と異なり、誰が来るかわからない図書館では、たとえ有限の蔵書で
あっても、どのようなニーズにも対応することを目指さなくてはならな
い。そのため、限られた予算とスペースという制限の下で、できるかぎ
り幅広いニーズに応えることができるよう、図書館の蔵書は構築される。
 しかし問題解決では、図書館のような〈数による網羅〉というアプロ
ーチが取れない。全知でも全能でもない有限の存在である我々にとって、
あらゆる問題を想定し、解決策をあらかじめ用意しておくことは不可能
である。


◯方法を生み出す方法

 したがって問題解決の汎用性は、図書館とは異なる仕方で追求される。
 一つのアプローチは、多種多様な問題に適用できる、抽象的なアプロ
ーチを用いることである。
 たとえば、問題を「目標と現状のギャップ」として定義することがこ
れにあたる。この定義は十分に抽象的であるために、特定の分野に限定
されず、さまざまな種類の問題に適用できる。そして、この問題の定義
に基づいて開発された問題解決法は、その抽象性のおかげで、多種多様
な問題の解決に用いることができるだろう。
 この最も知られる問題の定義を与えたハーバート・A・サイモンは、
問題解決のプロセスを「目標の設定、現状と目標との間の差異の発見、
それら特定の差異を減少させるのに適当な、記憶の中にある、もしくは
探索による、ある道具または過程の適用という形で進行する」と記述す
る。
 抽象度の高い説明だが、それゆえに特定の分野やジャンルに縛られな
い問題解決の技術を考えるのに役立ってくれる。多くの問題解決技法が、
このサイモンの定義を受け入れているのがその例証となるだろう。
 しかし、相当に抽象度が高い(ためにカバーできる範囲がそれだけ広い)こ
の定義にも、後述するように当てはまらない問題や問題解決が存在する
ことも確かである。
 そこで本書では「大全」の名にふさわしく、あらゆる問題解決を取り
扱えるように、さらにもう一段抽象度の高い、別のアプローチを採用し
た。
 それは“再帰性”を問題解決の本質であると捉え直すことである。
 再帰とは、数学・言語学・コンピュータ科学等で用いられる、英語の
recursionとその派生語の訳にあてられる言葉だが、同じ構造を繰り返
し入れ子的に用いることができる性質を指していう。再帰は、たとえば、
有限個の言葉によって無限個ある自然数を構成するのに用いられるが[*1]、
有限の手段によって無限を扱うところにはどこでも、この再帰が働いて
いる。
 問題解決の技術が、習得可能な有限の手法の集まりに過ぎないのにも
かかわらず、この先登場するであろう多種多様で無数の問題に応じる汎
用ツールたり得るのは、再帰的に構成されているから、もう少しわかり
やすい言葉で言い直せば、〈方法を生み出す方法〉であるからである。
つまり、新たに出現した問題が、既存の方法で対処できないのであれ
ば(これが問題解決が要請される場面である)、対処できる方法をその都度つ
くり出せばいい。そのために、問題解決の道具箱には〈道具をつくる道
具〉を備えておくべきだろう。
 問題解決の技術が持つべき、この再帰性は、それを必要とする人間の
本質(すなわち限界)から要請されるものである。
 我々が全知全能であれば、そもそも問題解決の技術は不要である。し
かし有限の地位に甘んじて、未定の未来に挑むことを断念するならば問
題解決は不可能である。
 問題解決の技術は、人間が限界ある存在であることを自覚しながら、
今の能力を超えた問題から逃げず、立ち向かおうとするところに生まれ
る。
 そのため、問題解決の技術は〈方法を生み出す方法〉であることが不
可欠なのである。


◯巨人の肩の上で問題を解く

 我々が生きる世界には、人間が生み出した創造物が溢れている。
 建造物や機械のような目に見える物体はもとより、学校教育のような
制度、そこで享受されるさまざまな知識、知識を伝達する書物やそれを
生み出す印刷などの技術、そして文字や言葉自体も、人間がつくり出し
継承してきたものであり、すべてが何らかの問題解決の成果である。
つまり我々は、過去の問題解決者がつくり出した〈未来〉に生きている。
 1つだけ身近な例をあげよう。
 ウィリアム・フェルプス・イーノ(William Phelps Eno、1858-1945)の名
を知る人は今日では多くない。その著作[*2]を読んだ人となれば、も
っと限られるだろう。しかし彼が立案した問題解決の成果を知らない人
は少ないはずだ。
「交通安全の父」として知られるこの人物は、世界で最も早く交通渋滞
が生じたニューヨーク市で生まれ育った。彼は成人し、道路交通に関わ
る諸問題の解決に取り組んだ。交通信号や一方通行や歩行者のための安
全帯などが、彼が提案し、実現した問題解決の成果である。
 重要なのは、イーノが問題解決に成功したことだけではない。彼は、
それまで多くの人々が「問題」として捉えなかった、言い換えれば、不
都合ではあっても解決すべきものとは受け取られていなかった交通渋
滞や交通事故を、改めて「問題」として捉え直した。イーノ自身に力が
足りず、あるいは機会に恵まれず、それら問題のすべてを解決できなか
ったとしても、その後に続く解決の努力を導くよう課題(アジェンダ)を
設定し、それによって世界を変えたのだ。
 イーノの名は忘れられても、彼の努力は、今も我々の世界の一部とな
っている。
 もちろん、こうして今もはっきりとその姿を残している問題解決の成
果ばかりではない。ほとんどの問題解決の成果は今では跡形もなく消え
てしまっているだろう。しかし、形を失ったとしても、継承は消えた訳
ではない。より優れた問題解決の成果に置き換えられたとしても、後か
ら生まれた問題解決の前提となり、礎となったのである。問題解決の登
場を準備したのは、より以前に試みられた問題解決への挑戦なのだ。
 問題解決の技術が〈方法を生み出す方法〉であることは、単に未来の
問題に開かれているだけでなく、未来へとその方法を受け渡し、また過
去の問題解決を継承する者として問題に挑むということでもある。
 これが、本書が過去の問題解決から方法と知恵を汲み取ろうとする理
由である。
 幸い、前著『アイデア大全』と同様さまざまな知的営為と実践から素
材を得ることができた。
おかげで問題解決や創造性研究に関わる心理学研究やビジネスの実
践はもとより、哲学、宗教、神話、歴史、経済学、人類学、数学、物理学、
生物学、看護学、計算機科学、品質管理、文学などに由来する技法を収
録することができた。


◯リニアな問題解決とサーキュラーな問題解決

 問題解決には、問題を理想と現状のギャップとして捉えるもの以外に
も、問題を一種の悪循環として捉えるものがある。
 本書では、問題解決の手法をリニア(直線的)な問題解決とサーキュ
ラー(円環的)な問題解決の2つに大別して取り上げた。
 リニアな問題解決は、直線的な因果性を基礎に置く問題解決の総称で
ある。
 このアプローチでは、因果関係を直線的に遡ることができ、究極の原
因にたどり着けると想定する。この究極原因を除去したり、変化させる
ことができれば、その結果もまた変化し、問題は解決すると考えるので
ある。
 これに対して、サーキュラーな問題解決は、たとえば鶏と卵の関係の
ように、原因と結果の関係がループしている(因果ループができている)こ
とを重視する。この場合、因果関係を遡ろうとしても、ぐるぐると巡っ
て究極原因にたどり着かない。したがって、究極原因の除去・変化とは
別の解決アプローチをとることになる。
 リニアな問題解決では、通常、問題解決者は問題の外に位置し、問題
状況を客観的に見ることができると想定する。また、問題解決に必要な
リソースは、問題状況の外から持ち込まれる。リニアな問題解決は、多
くのものを問題の外に置くことで、問題解決に必要なことだけに絞り込
み、シンプルに考えるアプローチだとも言える。人間の認知能力は限ら
れているから、この単純化は正当化される。
 これに対して、サーキュラーな問題解決においては、問題解決者も、
問題解決に投入されるリソースも、問題を構成する一部として考える。
問題解決者は、問題を構成する因果ループの一部に組み込まれており
(その意味で、問題状況に巻き込まれており)、問題についての認知もまた、因
果ループの一部として再生産されており、問題とは独立していない。
 また、問題解決のリソースを含めて、問題状況の一環と考える以上、
「リソース不足」を問題解決できないことの言い訳にはできない。なぜ
リソースが足りないのか、それにはどうすればいいのかまで含めて、問
題解決を構想することになる。
 リニアな問題解決の解決アプローチは、目標と現状のギャップを何ら
かの形で埋めたり(現状を一歩一歩変化させて目標に近づける)、より「上流」
の悪原因を取り除いたり、と日常的な思考と陸続きで理解しやすいもの
が多い。
 これに対してサーキュラーな問題解決は、例外や逸脱を強めて因果ル
ープのほころびを広げたり、逆説的な介入で因果ループに揺さぶりをか
けたりと、日常的な思考から見ると、なぜこれで解決するのかわかりづ
らいものも少なくない。
 しかし問題解決を実践する上では、両者は切り離せない。どちらも理
解した上で用いることができれば、問題解決の幅を広げることになる。
弧が円周の一部分であるように、リニアな因果関係はサーキュラーな
因果関係の一部を切り取ったものである。
 そのため、リニアな問題解決法は、サーキュラーな問題解決法の一部
として埋め込むことが可能である。
 リニアな問題解決では、因果の連なりの中で、より「上流」にある原
因を変えなくては、より「下流に」ある結果は変わらないと考える。考
察する範囲で最も「上流」にあるのが根本原因であり、これを変えるこ
とができれば、それより「下流」にある結果たちすべてに影響を与える
ことができると想定する。
 これに対して、サーキュラーな問題解決は、因果ループのどこか一部
を変えることができれば、その影響はループを通じて全体に行き渡ると
考える。喩たとえは悪いが、一箇所の傷口から入った毒が血液の循環を通じ
て全身に回るように全体に影響を与えるのである。ループの中では「上
流」も「下流」もない。このため介入すべき部分は、リニアな問題解決
が考えるよりも広く、数多くの中から選ぶことができる。
 問題を円環的因果性の観点から捉えることができれば、問題のどこか
一部を変えるために、リニアな問題解決法を使うこともできる。


◯問題解決を学ぶことは意志の力を学ぶこと

 問題解決をできるだけやさしく、また広く定義すれば、自分で定めた
目標に向かってうまく行動すること、言い換えれば「~したい」と思う
ことを実現すること、だと言える。
 目標を抱くこと、その実現のために自分の行動を計画し実行すること
はまた、人間の能力であると同時に人間が人間たるための条件でもある。
 我々が互いを一人前の人間として扱うのは、互いに責任を問える存在
として考えられるとき、すなわち責任主体と見なせるときに限られる[*3]。
 そして人が責任主体となるのは、その人が自由に自身の意図を抱くこ
とができ、その意図を実現するために行動することができる場合である。
 この意図の実現を目指す行動を我々は問題解決と呼ぶ。
 つまり人が責任主体であることは、問題解決者であることを前提とす
る。
 しかし、お互いを責任主体=問題解決者として取り扱うということは、
思った以上に厳しい要求を我々に突きつける。
 成功したときだけのこのこ出てきて、失敗した場合には逃げ隠れる者
を、我々は責任主体とも問題解決者とも呼ばない。問題解決者として扱
われるということは、問題解決の成功はもちろん、失敗についても引き
受けるよう求められることだ。
 しかし我々は、問題に関するすべてを把握できるわけでもコントロー
ルできるわけでもない。人間は全知でも全能でもない。失敗の原因には、
我々には知り得なかったもの、予見できたとしてもどうすることもでき
なかったものも、含まれうる。
 つまり問題解決者は、問題解決の結果について責任を負うならば、自
身の知や力を超えた事柄についても、その帰結を引き受けなくてはなら
ないことになる。
 予見もコントロールもできなかった事柄とその帰結についてすら、自
らの責任として引き受けることは過大な要求ではある。しかし、人はそ
うすることで、将来における同種の行動についてのコントロールの可能
性を増大させ、自身の自由の範囲を拡張することができる。
 全知でも全能でもない人が自由でありうるのは、この限りにおいてで
ある。
 そして問題解決が自身を拡張する再帰性を備える意義は、ここに存す
る。
 言い換えれば、ある時点での失敗を引き受け、未来の自由を拡張する
糧とするために、〈方法をつくるための方法〉としての問題解決の技術
は存在する。
 思えば失敗は「~したい」という意図を、何らかの意志を持たなくて
は不可能なことだ。これは苦境や困難を「問題」として捉え直すためには、
「~したい」という意志を持つのが不可欠であることと関連する。
 問題解決は人をその限界に、「~したい」ことの先にある「できない
こと」や失敗の危険に、直面させる。
 それでもなお、進もうとする意志が問題解決を要請する。
 問題解決を学ぶことは意志の力を学ぶことである。

(注)
[*1]『数の概念について』(ペアノ、共立出版、1969)。
[*2]イーノの著作は 1920 年代に早くも邦訳されている。『交通整理の科学』
(ウヰリヤム・エノー、 自警会図書部、1926)、『交通整理の原理』(エノー、
清水書店、1927)、『交通整理の簡易化』(エ ノー、1934)。
[*3]我々は、どれほど賢い犬であっても、その行動を裁判にかけたり、罪や
責任を問うたりしない。 同様に、どれほど処理能力の高いコンピュータで
あっても、その処理結果が他の機械(たとえ ば他国を攻撃するミサイル)に接
続されて、取り返しのつかない深刻な事態を招いたとしても、 責められた
り糾弾されるのは、そのシステムやプログラムをつくった/つくらせた人間
の方である。



■■ウェーバー『職業としての学問』(岩波文庫)===========■
■■ボナール『ギリシア文明史』(人文書房)=============■

 学問は、たぶん本当の学問というものは、人に「何をすべきか」は教えない。

 学問や「教え」をそういうものだと期待している人々に、とりわけ若い人たちに、
ウェーバーはとっても水くさいことを言う。

 しかし、この「水くさい」ことは、けれどもかなり厳しいことらしい。

 なんとなれば、現代人にとって、とくに「ヤンガー・ジェネレーション」にとって、
もっとも耐え難いことは、このような《日常茶飯事》であるからだ。
 つまるところ神々(価値観)の間で、争いがつねに続き(なにしろ《日常茶飯事》
なのだ)、それには誰も、決着をつけることができない。
 そして、こうした決着のつかなさに、人々は耐えられない。

 けれども、少なくとも学問は、そんな決着をつけることをしないし、またすべきでも
ない。
 やれると思ってるのは、自然科学の研究室にときどきいる「大きな子ども」か、自分
を予言者か何かと思いこんでいる教師だけだ。

 「現代の知識階級の人々の多くは、いわばなにか保証つき本ものの古いもので自分を
かざりたいという欲望を持っている、そしてこれにともなって宗教もまたこうしたものの
ひとつであることに気づく、ところが、なにしろ彼らは宗教というものを現在持っている
わけではない、そこでかれらはこれのかわりにほうぼうの国から集められた聖者の像で
おもしろ半分にかざりたてた一種の邸内礼拝堂を設け、あるいは、彼らが神秘的な救いの
神聖さを備えていると考えるあらゆる種類の体験のなかから代用品をつくりだし、これを
手にして読書界を行商して歩く」

もちろんウェーバーはこう言うのを忘れない。

(こんなふうにして)「なにか新しい予言が生まれたためしはない」。


 何が良いとか悪いとか、そうしたことを学問は教えない。

 けれど「こうしたら、こうなる」といったことは教える。

 つまりこういうことだ。人は「こうしたら、こうなる」と知ることが(大変難しいけれ
ど、可能性としては)《できる》。
 だからこそ、「こうなるとは知らなかった」と言って責任を回避することは《できない》。
 人は無知や未知をもはや言い訳にはできない。
 「そんなつもりじゃなかった」は許されない。
 欲した事(「つもり」)の責任をとるばかりでなく、引き起こしたすべての責任をとら
ねばならない。

 行為がどこに跳ね返り何を引き起こすかわからぬほど複雑な社会や全宇宙の中で、
こうした責任倫理を果たすことができるほどの知性を、耐え得るほどの精神を、あの
「水くささ」は要求する。

 ボナール(『ギリシャ文明史』)が、ソフォクレスの『オイディプス王』について、
次のように述べるとき、想起しているのは、まさしくウェーバーがいうこの倫理だ。

 (オイディプスの)熟慮に基づく行動と共同体に奉仕する行動(彼はその「才能」の、
洞察と行動力の悪用、つまり個人の利益を公共の利益に優先させようとする悪意をもたな
い)、これは古代における人間的完成である。このような人間がどうして運命の罠に捉え
られるのか。

 それはただ、まさしく彼が人間であり、彼の人間としての行動がわれわれの条件をつか
さどっている宇宙の掟の支配下にあるからなのである。オイディプスの過ちを宇宙の(あ
るいは神の)意志に帰してはならない。宇宙はそのようなことに関与しない。それは、我
々の善意にせよ悪意にせよ、人間の次元において我々が築いた道徳をまったく意に介さな
い。宇宙は、行為そのものにしか関与しない。宇宙は、行為がその秩序を、我々の人生が
そのなかに入り込むがしかし我々には異質なものとしてとどまるであろうその秩序を、
混乱させることがないよう防ごうとする(それは宇宙が、諸力の平衡状態を維持せんとす
るリアクションである)。

 現実はまったき存在である。あらゆる人間の行為はそのなかで反響する。ソポクレスは、
人間をいやおうなく世界に結びつける「連鎖」の掟を強く感じている。誰であれ行動する
ものは「行為」という存在を生み出す。それは、行為者から離れると、それを送り出した
行為者には予測できないような仕方で世界の中を動き続けるのである。それにもかかわら
ず、最初の行為者は最後の結果について-----妥当性においてではなく事実において-----責任
がある。妥当性において、この責任は、自分の行為の結果をすべて知っていた場合をのぞ
き、行為者に帰せられるべきではないだろう(その意味では、オイディプスは無実であ
る)。
 彼は結果をしらない。しかし、人間は全知でないが、行動しなければならない。ここに
人間の悲劇がある。行為のすべてが我々を危険にさらす。オイディプスという最高の人間
は(人間であり、かつ最高の人間=行為者であるが故に)、つまり最大の危険にさらされ
ているのである。

 かくして、まれにみるきびしさの、見方によってはまったく現代的な責任観が示されて
いる。人間は、彼が欲した事柄について責任があるのみならず、彼の行為が結果の予測の
手段も、ましてその防止の手段もまったくなしに引き起こした事件に照らしてみるとき、
まさに彼が行ったことが明らかとなる事柄(結果)についても責任がある。

 つまり宇宙は、我々がまるで全知であるかのように、我々を取り扱う。このことは、
あらゆる運命にとってなんと陰険な脅威であろうか。もし我々の知識がたえず無知と
混ざりあるならば(そのとおりだ!)、もしそこで我々が生きるには行動することを強
いられる世界が、その秘密の働きゆえに我々にとってなお暗黒同然であるならば。ソポク
レスは我々に警告している。人間は、諸力の平衡状態(バランス)が世界の生命をなすよ
うな、そうした諸力の総体を知らない。したがって、(その意味で、生まれながらにして
盲目の虜である)人間の善意は、人間を不幸から守ることにおいて無力である、と。これ
こそ詩人がわれわれにその悲劇(『オイディプス王』)で明かす知識である。

もう一度,繰り返そう。

 行為は、それを送り出した行為者には予測できないような仕方で世界の中を動き続ける。
にもかかわらず、最初の行為者は最後の結果について-----妥当性においてではなく事実にお
いて-----責任がある。妥当性において、この責任は、自分の行為の結果をすべて知っていた
場合をのぞき、行為者に帰せられるべきではないだろう(その意味では、オイディプスは
無実である)。彼は結果をしらない。しかし、人間は全知でないが、行動しなければなら
ない。ここに人間の悲劇がある。

 おそらくはまた、ヒトの尊厳も。

 
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