奈良検定お勉強日記

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◆奈良検定お勉強日記◆          2017.06.25   Vol.484
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奈良検定関係のおベンキョウをした内容をメルマガにしてお届けします。

過去問を中心としたお勉強が中心ですが、問題に関する雑談なども取り混ぜて
お送りしたいと思っていますので、既に合格された方にも読み物として読んで
いただけるとうれしいです。

発行人は
2010年(第4回)に2級、
2011年(第5回)には1級、そして
2012年(第6回)にはソムリエに合格をしました♪

■□■ 本日の内容 ■□■

<< 奈良まほろばソムリエ検定 2017年 1級 問21~問25  >>

問21 京奈和自動車道の建設に伴う発掘調査によって、板塀に囲まれた区画内に棟持柱をもつ
掘立柱建築が規則正しく並ぶ状況が確認された御所市の遺跡はどれか。
ア.極楽寺ヒビキ遺跡 イ.鴨都波遺跡 ウ.森脇遺跡 エ.秋津遺跡

問22 藤原京の左京にあって、一説に紀寺の跡とされるのはどれか。
ア.小山廃寺跡 イ.高宮廃寺跡 ウ.吉備池廃寺跡 エ.粟原寺跡

問23 山辺の道に沿って分布する陵墓を北から南へ向けて正しく並べたものはどれか。
ア.(北)衾田陵―崇神陵―景行陵―大市墓(南) 
イ.(北)景行陵ー崇神陵―大市墓―衾田陵(南)
ウ.(北)大市墓―景行陵―衾田陵―崇神陵(南) 
エ.(北)崇神陵-衾田陵―大市墓―景行陵(南)

問24 御所市の白鳥陵は日本武尊伝説のどの場所に当たると伝えられているか。
ア.琴弾原 イ.居醒泉 ウ.能褒野 エ.杖衝坂

問25 河合町にあり、廣瀬神社の西に広がる古墳群はどれか。
ア.東大寺山古墳群 イ.萱生古墳群 ウ.柳本古墳群 エ.大塚山古墳群

==解答======================================================
 21-エ 22-ア 23-ア 24-ア 25-エ
============================================================

■さあ、では、お勉強しましょう♪■

★問21は、御所市にある、板塀に囲まれた区画内に棟持柱をもつ
掘立柱建築が規則正しく並ぶ状況が確認された遺跡は、秋津遺跡。

秋津遺跡は選択肢になったり、ずばり出題されたりしておりますが、
ズバリの方としてはこんな感じで出題されています。

2013年2級の問29、
Q.御所市の宮山古墳(室大墓)の北方に広がり、
古墳時代の堅固な板塀や掘立柱建築群が発見された遺跡はどれか。
ア.秋津遺跡 イ.城島遺跡 ウ.曲川遺跡 エ.芝遺跡
(2013年11月6日発行、Vol.329)

2015年1級の問23、
Q.京奈和自動車道の建設に伴う発掘調査によって、板塀に囲まれた区画内に棟持柱をもつ
掘立柱建築が規則正しく並ぶ状況が確認された御所市の遺跡はどれか。
ア.極楽寺ヒビキ遺跡 イ.鴨都波遺跡 ウ.森脇遺跡 エ.秋津遺跡
(2015年5月21日発行、Vol.407)

ということで、2015年版のを丸パクですね。
っていうことは…今回はそれを使って復習です(自分もコピペぢゃん★)

>>>以下 加筆訂正の上再掲

「秋津」は御所市にある地域。
場所はここらへん。
(→http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/images/image-01/0124-02.jpg)

最寄り駅はJRの玉手駅になろうかと。
最近御所好いているので(?)ここらへんの土地勘もようやくあるようになってきましたが、
先日行ってきた吉祥草寺の南方面かあ。

”京奈和自動車道建設工事にともない発見された遺跡で、
2009年(平成21年)から発掘調査が行われている。
調査にあたったのは奈良県立橿原考古学研究所である。”
(中略)
”2011年には、古墳時代前期の塀に囲まれた区画施設内で検出された
22棟の掘立柱建物のうち8棟が、建物本体から独立した棟持柱(むなもちばしら)を
もつ特徴的な構造であることが確認された。”
(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%B4%A5%E9%81%BA%E8%B7%A1)

建物群の柱穴配置はこんな感じ。
(→http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/6-3outo.html)

建物の復元イメージ図はこんな感じ。
(→http://fujisakipr.blog136.fc2.com/?tag=%E7%A7%8B%E6%B4%A5%E9%81%BA%E8%B7%A1)

で。
棟持柱ってなんだっけ?って皆様(わたしも含む)へ、棟持柱の復習。
棟持柱とは、
”神明造(しんめいづく)りで、両妻の側柱外にあって棟を支える柱”。
(→https://kotobank.jp/word/%E6%A3%9F%E6%8C%81%E6%9F%B1-642095)

そして棟持柱が支えている、棟(木)とは、
”屋根を作る部材で、建物の最も高いところ
(二つの傾斜した屋根面が交わる部分)に配されるもののこと。”
(→http://blog.u-can.jp/t-ch/dictionary/2010/03/post_275.html)

棟持柱でいちばん有名な建物(?)といえば、伊勢神宮。
(→http://www.isejingu.or.jp/about/architecture/index.html)

あの屋根を支えている両妻中央の柱のことですわね。
伊勢神宮の棟持柱の写真を探していたら、こんなエピソードも発見したさ。
(→http://seapara.jugem.jp/?eid=3725)
※神宮正殿の棟持柱は宇治橋にかかる鳥居にリサイクルされます。

って、ハナシが神社検定の方へ流れていきそうになるので、
慌ててもとに戻せば…。

ここは「政治や祭りを行う神聖な空間を囲んでいた」場所であるらしい(橿考研見解)。
(→http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0124.htm)

その理由は、
・いずれも同じ方位をしている
・いずれも数十年間で建て替えていたよう
・遺構近くの川跡では、祭祀の道具とされる壺が多く捨てられていた

しかし、出土品としてフイゴの羽口や鉄滓(てつさい)など鍛冶にかかわるものも出土されて
いるので、ここを祭祀施設のみの場所と言い切ってよいかはまだまだ不明な点も…。
(→http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0124.htm)

その他の選択肢は…。

ア.極楽寺ヒビキ遺跡は、御所市極楽寺という地で発見されたのでその名が付く遺跡。
5世紀前半の豪族の居館跡と見られる。
5世紀といえば、ここらへんでブイブイいわせていたのが葛城氏。
葛城といえば、仁徳天皇の皇后の磐之媛の出身地。
ということで、この地が栄えていた頃の遺跡だそうです。
(→http://inoues.net/ruins/katsuragisi_house.html)

イ.鴨都波遺跡は御所市三室から出た遺跡。
(→http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_05_13.htm)

1号墳からは、鏡のほかに、勾玉、管玉、ガラス玉などが出土したってことで、
いいものが埋まっていた古墳なのだな。場所も由緒正しい場所(?)だし。

ウ.脇本遺跡は桜井市から出た遺跡で、近鉄大和朝倉駅の北西にあります。
第21代雄略天皇の泊瀬朝倉宮の跡地とされます。
(→http://inoues.net/ruins2/0928wakiyama.html)

>>>以上 再掲おわり

最近御所へ行くことが多いので(ははは)なんかようやく土地勘ができてきました。
寺にはよく行きますが、遺跡はいかんので、ここら辺の遺跡はぜーんぜん行ったことがないのですが。
ここら辺もせめてみたいと思います。

★問22は、藤原京の左京にあって、一説に紀寺の跡とされるのは、吉備池廃寺跡。
(公式テキストP132)

吉備池廃寺跡を問う出題は2パターンあって、

2008年1級の問12、
Q.発掘の結果、百済大寺と推定されている吉備池廃寺は、およそどのあたりにあるか。
ア.甘樫丘の南方 イ.畝傍山の南西方 ウ.天香久山の北東方 エ.耳成山の北方

の「場所」を問う問題と、

2014年2級の問26、
Q.桜井市にあり、舒明天皇建立の百済大寺とも推定されている寺院跡はどれか。
ア.山田寺跡 イ.毛原廃寺 ウ.吉備池廃寺 エ.本薬師寺跡

の「寺の名前を問う」問題の二つ。

今回は名前を問う方でした。
ちゅうことで、そっちのほうの過去のメルマガ貼っておきます。

<<<以下再掲

百済大寺は舒明天皇が発願して作らせた寺。
「大宮と大寺を造らせる」と詔したと『日本書紀』にあり、
宮は百済川のほとりに決定。
西国の民は大宮(百済宮)を作り、東国の民は大寺(百済大寺)を作ったといいます。

しかし、寺を作るという執念は舒明天皇に始まるのではなく、
聖徳太子に始まるんだとか。
それは「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」に記されている。

”舒明天皇がまだ田村皇子と呼ばれた頃、聖徳太子の病が重くなった為、
推古天皇は皇子を見舞いに遣わしました。太子は、自らが熊凝村に建てた精舎を、
御世御世の天皇のために大寺となし永く三宝を伝えてほしいと皇子に遺言されました。
太子の付嘱をうけて皇子は舒明天皇となった時、百済川の畔に熊凝精舎を移し建て
百済大寺とされました。”
(→http://www.daianji.or.jp/03/0301.html)

聖徳太子(厩戸皇子)は、用明天皇と穴穂部皇女の間に生まれた皇子。
用明天皇は欽明天皇の皇子で、舒明天皇は欽明天皇のひ孫。
欽明天皇の孫(聖徳太子)と、欽明天皇のひ孫(舒明天皇)の関係って…なんだ?!
(この頃の天皇家ってややこしすぎ!)
とりあえず、親族には違いない。(逃げたな)

系図はここでチェック。
(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD
%90#mediaviewer/File:Emperor_family_tree26-37.png)

親戚のおじさん(聖徳太子)のお見舞いに伺った田村皇子(後の舒明天皇)は、
太子が「天下太平・万民安楽」の祈りの道場として平郡の地に建立した
「熊凝精舎(くまごり)」を国の大寺とするようといった言葉を守り、
天皇となって、熊凝精舎のあった場所に百済大寺を建立された、と。

これには天下の蘇我氏の関与は見られないとのことなので、
天皇家(この当時は大王家か)の力で建てた初めての寺(官寺)ということに。

その後、この百済大寺は飛鳥の藤原京に移設され、呼称を「高市大寺」と変え、
次いで「大官大寺」と改称された。
そして平城京遷都に伴い今日の奈良市内の地に移建され、寺名は「大安寺」となって現在に至る。
大安寺の歴史はざくっとこんなものだったのだな。

ということで、流れをさらにおさらい。

1)熊凝精舎は621年に聖徳太子が、現在の額安寺のあたりに置いたもの。
(→http://www.geocities.jp/watsns/box2/gakuanzi.html)

2)百済大寺は舒明天皇の勅願寺。
(→http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm013.html)

3)高市大寺は、天武天皇が造営したお寺。現在の明日香村のどこかにあった。
(→http://www.daianji.or.jp/03/0302.html)

その後、高市大寺は、天武天皇によって”大官大寺”と名を改められる。

4)文武天皇が造営したという大官大寺は、高市郡明日香村大字小山に伽藍を構えた。
(→http://www.daianji.or.jp/02/0201.html)

天武天皇が造営した”大官大寺”とは異なる’大官大寺’が
文武天皇によっても造営されたことになる模様。

”「大寺」とは私寺に対する官寺を意味しています。
また、「おおつかさのおおてら」と訓じられ、
大官=おおつかさとは天皇をさす言葉でもあります。
すなわち天皇自らの寺として、
国の安泰と人心の安寧を祈る公の寺という意味でもあり、
また全僧尼を統制する僧綱所でもありました。”
(→http://www.daianji.or.jp/03/0302.html)

なので、大官大寺は、
(1)天武天皇造営のもの
(2)文武天皇造営のもの
があるんだな。要チェック。

5)大安寺は、平城遷都の際に奈良の都に移転されて作られた。
(→http://www.daianji.or.jp/03/0303.html)

で。
話を吉備池廃寺の方へ戻すと。

かつて「百済大寺」は「百済」という名前から、
北葛城群広陵町の百済寺周辺との関係がとりざたされたものの、
その近辺に付近に巨大な寺があった痕跡が見られない。
(寺跡が出たとか、瓦が出土したとか)

そんな中、1997年に出たのが、吉備池堤防から発見された金堂跡らしきもの。
奈文研はそれ(吉備池廃寺)が、どうやら百済大寺の跡であると見られると発表。

この地の周辺では以前から瓦片が出土していて、その瓦の年代から百済大寺の瓦を焼いた
窯があったのではないか、とか、その地名との関係から吉備氏の氏寺があったのではないか、
とかいろいろ噂はされてきていたらしい。
(→http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/924/1/BA62803289_zyo.pdf)

しかし、その後の調査でやっぱりここはお寺の跡であるとわかり、
その堤防の名をとって「吉備池廃寺」と命名された。
そして、どうやらこれが舒明天皇が発願した百済大寺ではないかということになった。

”吉備池廃寺の寺域は東西180m、南北160m以上の大寺院であったことが判明した。
そこで、2002年3月、我が国の古代寺院史上きわめて重要であるとして、
「吉備池廃寺跡」の名で国史跡に指定された。 ”
(→http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/kibiike-haiji.htm)

幻の百済大寺だったのだな~。

その他の選択肢は。
ア.山田寺跡は、蘇我倉山田石川麻呂の建立した寺の跡地。
倒壊した当時の回廊がそっくりそのまま出土したことで有名。
(→http://www.jptravel.net/2011/02/post_220.html)

イ.毛原廃寺は山添村毛原にあった寺。
立派な礎石が残っているけど、何の記録も残ってないお寺だそうなんだけど、
ここって国の史跡なんですね。(大正15年指定)
(→http://www.ne.jp/asahi/yuhi/net/haiji/haiji01.htm) 

エ.本薬師寺跡は橿原市城殿町にあります。畝傍御陵前駅から東へ行ったあたり。
本薬師寺は、天武天皇が皇后(=後の持統天皇)の病平癒を祈念して発願した寺。
(→http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/kankou/spot/motoyakushiji.html)

平城遷都の際には、この地を離れて、都に作り直しされました。

その他の選択肢は。
ア.小山廃寺跡は明日香にあったお寺。県立の庭球場の前ですね(マニアックな情報)
場所はこちらを参考に。紀寺だったところ、とされています。
(→http://www.pref.nara.jp/secure/57354/4.pdf)

論文あります。
(→https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/11/18/11_18_93/_pdf)
 
イ.高宮廃寺跡は御所市鴨神にあったお寺。高鴨神社から行くと徒歩45分!
山の中やん。ハードル高いなあ。
(→http://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/d26e8f8790d44ad020d394a9a177ba94)

エ.粟原寺跡は桜井市の押阪から南へ行ったあたりにあったお寺。
(→https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E5%90%8D%E6%89%80%E6%97%A7%E8%B7%A1/%E5%BF%8
D%E5%9D%82%E8%A1%97%E9%81%93/%E7%B2%9F%E5%8E%9F%E5%AF%BA%E8%B7%A1/)

粟原寺といえば、談山神社(当時は談山妙楽寺)宝庫から発見された粟原寺
三重塔の露盤の伏鉢。
(→http://mynara.exblog.jp/7022008/)

★問23は、山辺の道に沿って分布する陵墓を北から南へ向けて正しく並べたものは、
(北)衾田陵―崇神陵―景行陵―大市墓(南) 。

古墳の位置を問う問題で、こういうの増えてません?
ただでさえ古墳ニガテなのに(をい)、その位置関係を問われるとお手上げです。

とりあえずそれぞれの陵をざくっと整理すると。

衾田陵(ふすまだりょう)は別名、西殿塚古墳(にしとのつかこふん)。
(→http://www.bell.jp/pancho/travel/yamanobe/fusumada_ryo.htm)

継体天皇の皇后・手白香皇女陵と治定されたけど、
どうやら考古学的に見て違うらしい。
本当の手白香皇女陵とされるのは、近所の西山塚古墳とみられるそうです。
(→http://74589594.at.webry.info/200808/article_7.html)

『大和古墳群』に属してます。

崇神陵(すじんりょう)は別名、行燈山古墳(あんどんやまこふん)。
(→http://kanko-tenri.jp/kanko_guidance/nanbu/suzinryou_kofun.html)

景行陵(けいこうりょう)は別名、渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)。

この二つは北から崇神+景行のならびで、並んでます。
どちらも『柳本古墳群』に属しています。

大市墓(おおいちのはか)は、
孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓。
(→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3)

これは『纏向古墳群』。

これを一度に眺められる地図で見ると一目瞭然。
(→http://2nd.geocities.jp/txinui/miwakofun1.htm)
左から、衾田陵→崇神陵→景行陵→大市墓(箸墓)

ってことで、
(北)衾田陵―崇神陵―景行陵―大市墓(南) が正答ということになります。

★問24は、御所市の白鳥陵は日本武尊伝説のどの場所に当たるか、だから琴弾原。
(→http://goseshikankou.jp/syousai/siseki-kofun/akitusimanomiti/
yamatotakerunomikotohakutyouryou/yamatotakerunomikotohakutyouryou.html)

ヤマトタケルの伝説を古事記でザクッとおさらいしておくと。

ヤマトタケルは景行天皇の皇子。(先ほどの陵問題で出てきた景行天皇ですわね)
子だくさんの中で、ワカタラシヒコ、オホウス、ヲウス(ヤマトタケルノミコト)が御子とされるも、
ヲウスはやんちゃ坊主だったようで…。

ある時、景行天皇は三野のエヒメ・オトヒメをいう姉妹を連れてくるようにオホウスに命じます。
美女姉妹だったんでしょうねえ。それをご所望されたと。はあ…なるほどなるほど。

オホウスは任務のため三濃に赴きますが、
姉妹にあったとたん「マジ美女」と思った(かどうかはわからんけど)。
そしてオホウスは父の命令に背き、姉妹を自分のツマとしてしまい(!)、
代わりに別の姉妹を父に差し出します。

それに父は気づいてはいるものの何もいわず、オホウスも自分の行いのうしろめたさから
父と顔を合わせないようになります。
そこで天皇はヲウスに「ヤツは何故出てこんのだ?お前行って、ねんごろに教え諭してこい」と命じるも、
その後もオホウスは顔を出さない。

そのため「何故オホウスは出てこないのだ」とヲウスに尋ねると、
「こないでしょうなあ。だって兄を踏みつぶし、手足を引きちぎって捨ててしまいましたから」
とのこと(ガーン)
その暴力的な振る舞いに恐れをなした天皇は、自分から息子を遠ざけるために、
西にいるまつろわぬ民たちの平定に向かわせます。

ヤマトタケルという名前は、南九州にいたクマソタケル兄弟とたたかって勝利した際に献上された名前。
クマソタケルをやっつけ、イズモタケルもやっつけ、ふふ~んと帰国したヤマトタケル。
しかし、かれは息をつく暇もなく、戻るとすぐさま今度は東へ派遣されます。

おとーちゃんはボクのことが嫌いなのかも…とオバちゃんであるヤマトヒメにこぼすヤマトタケル。
そんな彼にヤマトヒメは、「これあげるから」と草薙剣を授けます。
それはスサノヲがヤマタノオロチを退治した際に、しっぽから出てきたあの剣。
そしていまひとつ、「万が一の時に使いなさい」と袋を一つ渡しました。

そして東へ東へと向かう道すがらの地を次々と平定してゆきますが、ここでピンチ発生。
相模の国でヤマトタケルは野原の中で火を放たれて殺されそうになりますが、
オバちゃんからもらった剣で草を薙ぎ払い、袋の中に入っていた火打石で逆に火をつけたところ、
火が自分がいる方と反対に向かって燃え上がり、ヤマトタケルは生還することに成功。
(これにより、この地は”焼津”と呼ばれるようになったとのこと)

その後も有名な伝承が続きます。
・海をゆく際に海の荒れを鎮めるために后のオトタチバナヒメが海に身を投げたら波が鎮まった
・足柄山の坂の上で「わが妻よ」と后を偲んだので、この地は「あづま」と呼ばれるようになった

そんなヤマトタケルですが、大和へ戻る途中には、
尾張のミイヤズミズヤヒメっちゅう美女(?)の家をちゃっかり訪れてます。
実はすでに東征の途中で出会ったムスメでしたが、彼の帰りを信じて待っていてくれたとか。
その彼女と一夜を過ごし、なぜかこの地にヤマトヒメからもらった剣を置いて、
イブキヤマの神の征伐に出かけます。
自分の実力を試したかったのでしょうか。

その山でまず白い大猪に出会ったヤマトタケルは「お前なんぞはいつでも倒せる」と不遜な態度をとります。
しかし、この猪こそ山の神が姿を変えたもので、怒り狂った山の神は毒気のある雹を降らせ、
ヤマトタケルノミコトの体にたたきつけます。
それにより体調悪化したヤマトタケルノミコト。

もうすぐ大和という地まで来たのに、先へ進む気力・体力・時の運が尽きかけてました。
・朦朧とした意識の中、(関ケ原や米原付近?)居醒めの水を飲むと意識がはっきりしてきた
・当芸野(たぎの・岐阜県養老郡)では、杖を突きながら歩くようになり(後年ここを杖衝坂と呼ぶようになる)
・わたしの足は三重に折れ曲がってしまったかのように疲れた
・能煩野(のぼの・三重県鈴鹿山脈付近)ではとうとう動けなくなった

そんな中、能煩野で彼が残した歌が有名なアレ。

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるわし」

ヤマトタケル…没。

その訃報を受けた妻子は終焉の地へ駆けつけて陵を作ったが、
陵からは白鳥が舞い上がり、飛び去ってしまった。
それを追う妻子。追いかけてゆくと(鳥のスピードに追い付くってどうよ?)
白鳥は飛び続け、河内の国志紀にいったんとどまり、
そして更に飛び立ってゆき、そのまま行方知れずに。

以上
参考図書
図説 地図とあらすじでわかる!
古事記と日本書紀 坂本勝監修 青春出版社 2009

神社検定公式テキスト2
神話のおへそ 神社本庁監修 扶桑社 2012

あれ?
角川ソフィア文庫の「新訂 古事記」にもあたったんだけど、
『琴弾原』なる名前はなかったんですが…。
と思ったら、
講談社学術文庫 全現代語訳 日本書紀上 宇治谷猛著 1988
にあたったら、ありました。

”(前略)群卿に詔し、百僚に命じて、伊勢国の能褒野の陵に葬られた。そのとき
日本武尊は白鳥となって、陵から出て倭国をさして飛んでいかれた。
家来たちがその柩を開いてみると、衣だけが空しく残って屍はなかった。
そこで使いを遣わして、白鳥を追い求めた。倭琴弾原(奈良県御所市富田)にとどまった。
それでそこに陵を造った。白鳥はまた飛んで河内に行き、古市邑(大阪府羽曳野市軽里)に
とどまった。またそこに陵を造った。時の人はこの三つの陵に名づけて、白鳥陵といった。
それからついに高く飛んで天に上った。それでただ衣冠だけを葬った。
功績を伝えようとして、武部を定められた。”
P172より

琴弾原は日本書紀にしかない伝承なのね。ふむふむ。
しかし琴弾原なんてステキな名前がついているから、読んで字のごとく
琴を弾いた場所かと思ったら、そんな話はないようで。
(あるのかな?別の人の伝承でもいいけど)

ということでヤマトタケルノミコトの墓は、
・能褒野(三重県亀山市)
・琴弾原(奈良県御所市)
・河内の古市(大阪府羽曳野市)
の三か所にあるんだとか。

てことで、現代においてはこの三つの市は仲良くなったそうで。

”御所市では、日本書紀に記される「日本武尊白鳥伝説」ゆかりの三市(三重県亀山市
・大阪府羽曳野市・御所市)により、平成10年11月、夢育むまちづくりのための
都市間交流の合意書を取り交わしました。”
(→http://www.city.gose.nara.jp/0000000428.html)

ここからは、余談。
実は、宇陀市内にも琴弾原(コトヒキガハラ)という所があるそうです。

”実は、宇陀市内にも琴弾原(コトヒキガハラ)という所があります。
ここにでは「ヤマトタケルが葬られた能褒野の陵から一羽の白鳥が飛出し、
大和を目指して飛び去った。この現象を不思議に思って、陵の棺を開けると
ヤマトタケルの遺体はなく、棺は空っぽとなっていた。能褒野を飛び立った白鳥は、
大和の琴弾原にしばらく留まり、その後、河内の古市へと至り、
遂に天上へと飛び登り消えてしまったという。
琴弾原と古市にも陵が造られ、その霊を祀った。
大和の琴弾原とは当地のことで、ここにヤマトタケルを祀る祠を置いた。」
と伝えられています。この祠とは、大宇陀山口に鎮座する白鳥(しらとり)居(い)神社のことで、
ヤマトタケル、父の景行天皇(12代天皇)、子の仲哀天皇(14代天皇)を祭神としています。
この神社の祭祀は、大宇陀山口と大宇陀白鳥居の方々によって行われています。”
(→https://www.city.uda.nara.jp/udakikimanyou/yukari/series/kojikinihonsyokimanyousyu2.html#m8)

場所は近鉄三本松から近くだそうで。
ここならば奈良へ向かう前に途中下車しても行けそう。

なぜここがヤマトタケル伝承があるのかといえば、
”鎮座地の地名が琴引で、琴弾原に似ていることから”
(→http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/tag/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
ふーん。

以上です。

その他の選択肢は。
イ.居醒泉は、現在だと「醒ヶ井」@米原市を浮かべるけど、
岐阜県関ヶ原町玉にも「玉倉部の清泉」なるものがあるそうな。
(→http://achikochitazusaete.web.fc2.com/kiki/keiko/ibukiyama.html)

ウ.能褒野は前に見てきたとおり、ヤマトタケルが亡くなった地ですが。
”能褒野”表記は『日本書紀』ね。
『古事記』では”能煩野”書き。
(→http://kameyamarekihaku.jp/21theme/zone02/shousai2.html)

エ.杖衝坂は四日市市采女町にある坂。

”能褒野ニ到ルノ時、剣ヲ杖ツキ此坂ヲ踰エ玉フ故ニ名ヅク(以下略)」と記述されており、
『勢陽五鈴遺響』にも同様の説明があります。いわゆる日本武尊伝説地の一つです。”
(→http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/Q_A/detail.asp?record=113)

★問25は、河合町にあり、廣瀬神社の西に広がる古墳群は、大塚山古墳群。
(公式テキストP202)

廣瀬神社の最寄り駅(?)近鉄池部駅から歩いて向かう途中に「なんか古墳が多いなあ」って
思ったあたりがこの大塚山古墳群だそうで。
時間の関係上と、自分の趣味の関係で、古墳巡りはしてこなかったのですが、
あそこらへんも歩いておきたいなあと思い始めてはや数年。
「私を古墳に連れてって」ですわ(古墳の知識がないもんで)

これは2013年1級の問26、で既出。
Q.河合町にあり、廣瀬神社の西に広がる古墳群はどれか。
ア.東大寺山古墳群 イ.萱生古墳群 ウ.柳本古墳群 エ.大塚山古墳群
(2013年5月6日発行、Vol.309)

丸パク問題なので、それを使って復習しておきます。

>>>以下再掲

大塚山古墳群は、大型の前方後円墳である大塚山古墳を中心とした古墳群。
馬見丘陵の東北に位置し、廣瀬神社の近くにちらばる。

近鉄の「池部駅」で降りて、南へいけば「馬見丘陵」、北へ行けばこの「大塚山古墳群」。
ということで、池部駅というのはマイナー(失礼!)な田原本線にあって、
結構有名な駅なのかも。

私は馬見丘陵方面へは行った事がないのだけど、
2月11日の廣瀬神社の砂かけ祭りに行くときに利用しました>池部駅。
その時も、馬見方面から来たとおぼしき集団のおじ様たちに遭遇しましたし。
今度は馬見方面にも行ってみたいです。

で。
その池部駅から歩いて廣瀬神社へ向かっている途中にあるのが大塚山古墳。
おおー古墳だと思ったものの、古墳だし(をい)、先を急いでいたのもあって、
立ち寄りはしませんでしたが、ちらちら見ながら歩きました。

大塚山古墳は全長215mの県内屈指の規模を持つ前方後円墳。
三段築造で、葺石と埴輪が見つかってます。
(→http://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/326d0ff85f6a72f656d701d2d9da6905)

他の古墳群としては、九僧塚古墳、城山古墳、丸山古墳、高山塚古墳等があります。
(→http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=139167)

分布図はこちらを参考に。
(→http://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/a09db2721d845c1a072b65971ea620fb)

その他の選択肢は。
ア.東大寺山古墳群は、天理市の名阪自動車道沿いのシャープ近くにある古墳群。
(→http://kanko-tenri.jp/kanko_guidance/hokubu/toudaiziyama_kofungun.html)

中央的存在の東大寺山古墳は、中国・後漢時代の「中平」年号が
象嵌された大刀が出土したことで有名。

イ.萱生古墳群は、三輪山西麓の古墳銀座のうち、萱生町付近の古墳群のこと。
(→http://kanko-tenri.jp/kanko_guidance/nanbu/ooyamato_kofungun.html)

西殿塚古墳、東殿塚古墳、中山大塚古墳、燈籠山古墳、下池山古墳、馬口山古墳などがあります。
(→http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/kayo/kayo.html)
※問23でも出てきましたね>西殿塚古墳

ウ.柳本古墳群は、古墳銀座のうちでもチョー有名古墳を有する古墳群。
(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9C%AC%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4)

これまた問23で出てきた行燈山古墳と渋谷向山古墳を有する古墳群で、
他に黒塚古墳、天神山古墳、櫛山古墳などを有す。
櫛山古墳は、「双方中円墳」という珍しい形をしている。
(→http://kofun.info/type/9)

■編集後記■

例年6月は神社検定なんちゅうものに手を出していたせいか、
奈良検定のお勉強を休んで、そちらにかかりきりになっていましたが。

今年は潔く受験を断念したので…のんびりできる…と思ったにもかかわらず。
うーん。
今年は野暮用が多くて(?)神社検定の勉強に時間をとられることはなかったにもかかわらず、
奈良検定の勉強も進まなくて、悶々としました。

このままのペースで行くとまた2級の終わりはバタバタだぞお~と自分にハッパかけてます。
(それでもスローペースは改まりませんが)

なんか、あっちゅう間に6月も下旬ですね。
今年も半分おしまいです。
ちゅうことで夏越の祓を求めて奈良でもフラフラしてこようかなあ。
(勉強はどうした?勉強は!)


★★ 最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。★★


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