ヨッキー牧師からのメッセージ

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東京・新宿コミュニティー教会(日本キリスト教団)のYockey牧師による日曜礼拝メッセージ集です。

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メルマガ名
ヨッキー牧師からのメッセージ
発行周期
ほぼ 週刊
最終発行日
2017年10月21日
 
発行部数
97部
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その他・ノンジャンル > 情報販売・無料レポート > 生活のノウハウ

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「最後まで」(ヨハネによる福音書15章9〜17節)

9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


(この日のメッセージの最初に、過激派による教会破壊の映像を観ました。
“ISIS Members DESTROY Church in the Philippines!”と検索するとYouTubeで観られます)

礼拝のはじめにLYRE(リラ)というグループが歌っている「最後まで」という曲をご一緒に歌いました。
私たちの教会でもLYREの「小さな祈り」「帰り道」をよく歌いますけれども、「最後まで」は今年発表されたアルバムに収録されている曲です。LYREのCDを見ると歌詞カードの中に、その曲に込めた思いをおそらく作詞者が書いているのでしょうけれども、この「最後まで」にはこのような言葉が添えられていました。

「ISによってたくさんのクリスチャンが殺害されたというニュースを聞いた時、なんとも言えない重いものが心にのしかかってきました。
金木犀香る穏やかな秋空を見上げ、「本当にこの同じ空の下でそんな恐ろしいことが起きているのか」と平和すぎる自分の周りとのギャップに切なく感じました。自分だったらどうだろうか? 
イエス様の為、命を差し出せるだろうか? そんな問いかけが今に至るまで、ずっと心にあります。
そして「絶対できます。」と言い切れない弱い自分を見せられます。命を懸けてイエス様を信じていったあの人達のように、最後までイエス様を愛していきたい、それが私の願いです」

私はこの言葉に共感しました。
そして「最後まで」を聴いたり、歌ったりする時に、殉教していった多くのクリスチャンのことを思うようになりました。
今日のイエスさまの言葉の中に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」というものがあります。
字義通りに理解しようとすると、私たちにとってはとても難しいことです。
そしてイエスさまは自爆テロをしなさい、といっているわけではない。何度もお話ししておりますが、私たちのいのちは神さまのものです。私たちはいのちを預けられているだけです。自分の好き勝手にしてはいけません。
皆さんはイエスさまが「隣人を愛しなさい」と言われたのを知っています。それがこのヨハネの福音書では「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と言い換えられているのです。

今日の箇所はイエスさまが最後の晩餐の時に、弟子たちに自分の思いを、心を込めて真剣に話した「告別説教」と呼ばれているメッセージです。イエスさまはここで弟子たちをもはや僕(しもべ)とは呼ばず、「友」と呼ぶと言われました。
これは弟子たちだけのことではありません。イエスさまは今日も私たちを「友」と呼んでくださり、私たちを愛しておられます。
人間は、お互いがお互いのために犠牲になるという愛の交わりによって生かされていくものですよ、とそれがイエスさまの言われる「友」の姿です。

15節「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。このみ言葉を聞くとイエスさまが生前ガリラヤにおいて、きっと泥だらけになりながら旅をして貧しい農民に、あるいは病気の人に、差別されていた人に「神の国とはこんなところだよ」と目を見開いて真剣に語っていた表情を思い浮かべます。それは今、この現代においても続けられています。
しかし、イエスさまの親友とされた私たちが、自分の身体と心の中に生き続けているイエスさまを宣べ伝えていくのです。
私たちは助けを必要としている人にイエスさまの救いのみ言葉を伝えることができます。
気弱になっている人にイエスさまの慰めの言葉を届けることができます。
そして友にも恵まれない孤独な人にイエスさまの暖かいみ言葉を、皆さんの中に生きている今も復活のイエスさまが語ってくださいます。

そうしてイエスさまの愛は2000年の歴史を超えて現代の私たちのところに届けられたのです。
16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。私たちがイエスさまを選んだのではない、イエスさまが私たちを選んでくださった。このみ言葉が話されたあの最後の晩餐の部屋に戻ってみたいと思います。
なぜ、最後にイエスさまはこのみ言葉を語られたのでしょうか? 
弟子たちの中には、「いやいや、私がイエスさまを選んで従ってきたんだ」そう思っている人がいたのではないでしょうか。
最後の晩餐の席上で弟子の一人ペトロはこう言います。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26・33)。
ペトロの言葉の背後には自分からイエスを選び、従っているのだ、という思いが表れています。

私たちも、あるいは教会に来る人たちにも同じ思いがあるかもしれません。自分で教会に通うことを決めて、そして自分が従っている、という思いです。
しかし、このことを逆の見方で見てみるとそれを辞めたいと思うときにはいつでも、簡単にそれを棄ててしまうことができる危険性をはらんでいます。本物の信仰は、私たちのいのちの造り主である神さまに委ねる信仰です。神さまに対して絶対的な信頼を寄せるのですから、いつでも簡単に棄て去るのとは相反するものです。
自己中心ということをよく言いますけれども、文字通り自分を真ん中に据えた思いです。
そうではなくて「わたしがあなたがたを選んだ」と言うのは私が中心とか、私が選んで信じているという思いを180度変えて神さまを中心にして、そして信じている私も、神さまの選びによるのだという考え方に転換しなさいというみ言葉です。
本物の信仰は私が神を、イエスさまを信じることも、教会に来ていることもすべて神さまの選びによるのだと信じられるどうかにかかってきます。
自分が選んだのではなく、イエスさまのほうで自分を選んでくれたという考え方に転換しなさい、ということをイエスさまは弟子たちにも私たちにも求めているのです。イエスさまは宣言しておられます。「わたしがあなたがたを選んだ」。
私たちが自信に満ちているときも、弱り果てている時もいつでもイエスさまが「わたしがあなたを選んだのだから大丈夫」って言ってくださるのです。太鼓判を押してくださるのです。

皆さんが教会に来られたのは、たまたま偶然ではないのです。ある人はクリスチャンの家に生まれた。
ある人は友達が教会に行っていて誘われた。ある人は入学した学校がキリスト教の学校だったとか、さまざまな「きっかけ」があります。そうして教会に導かれた。
聖書との出会いがあったのですが、でも私たちの周りを見てみれば、キリスト教とは何の関係もなく生きている人もたくさんいます。この私が教会に導かれている、他の人がまだ知らないイエス・キリストに出会っている。これはたまたま起こったことではなく、神さまがわざわざ「あなた」という一人を選ばれたのです。
選ばれたことに誇りを持っていいのです。この選びは英語で言うとCallingです。
神さまは私たちを「呼び出された」のです。このCallingには大切なことが含まれています。
それは言葉の意味は「使命」とか「職業・仕事」という意味がありますが、神さまに選ばれた者として私は何をしていくのか、何を神さまと隣人とに捧げていくのかということです。

16節の続きに目を向けて見ましょう。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

ここで2つのことが言われています。
1つは私たちが人生の旅に出かけて行った時、私たちの生活の場で私たちがすること(イエスさまの愛を伝える)が実を結ぶ。そしてその実が残されていく、2つ目はイエスさまの名によって願うことが何でも与えられるということです。
これは最後の晩餐で弟子たちに語られたことでした。もうすぐイエスさまは十字架につけられて殺されるけれども、イエスさまの愛に留まり続ける人は決して破綻することはない。
そして先週の箇所でしたが、15章の1節からイエスさまが私たちを選んでくださってぶどうの枝としてくださった。
それは実を結ぶためなんですね。それも豊かに実を結ぶためです。神さまがある人を選ばれるのは、その人を通して、さらに他の人々に救いを伝えようとしているのです。その中で大切なことをイエスさまは言っておられます。

17節「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。

私たち一人ひとりの中に「互いに愛し合いなさい」というイエスさまの教えが実現するときに復活のイエスさまは私たちの中で生き続けてくださるのです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」破壊することではありません。
殺すことでもありません。その人をその人として「生かす」のがイエスさまの教えてくださった神の愛なのです。

祝福がありますように!
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