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理性通信--論理のすすめ

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理性通信--論理のすすめ

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哲学史上の諸説やエピソードを、論理学の形成過程として気軽に楽に逍遥していきます。論理学の内容とは、質、量、原因、結果、必然、偶然といったカテゴリーのことで、カテゴリーを純粋論理として規定するのが哲学の純化です。経験世界を離れて純粋論理の世界での自由な遊泳を楽しみを味わうのが逍遥の目的です。

サンプル号
 理性通信--論理のすすめ
 
 ----論理とは哲学のこと----
 
 理性通信で論理のすすめと言ってもなんの話か分かりにくい。分かりやすく言うと哲学の話であるが、
実は哲学とは何かはもっと分かりにくい。それは哲学とは何かが哲学の最大の難問であり、未だに理解
されていないからである。
 哲学以外の学問は名前が内容を表しているし、多少の説明をすれば経験的知識によってどんな学問か
見当はつく。哲学だけは、哲学とは何か、どんな学問か、哲学は何を問題にしているのかは、実際に説
明しようとするとどうにも説明できないことが分かるだろう。実のところ哲学とは何かが分かっている
人はいない。ギリシャ以来哲学の最大の難問は哲学とは何かだった。
 
 
 ----哲学は特別の学問である----
 
 哲学は難しい学問と思われていて、実際に難しい学問で小難しいのではなくて大難しい学問であるが、
その難しさは他の学問と違って独特で、極端に難しい側面もあるが実は誰にでもわかる簡単な学問でも
ある。哲学を理解するのに学者である必要はない。哲学は専門に研究しても理解できにくい性質の学問
で、高尚で難しい印象があるにしては誰でも哲学について語ることができると思っているしそうしてい
る。哲学は面白いだけではなく、自然科学と違って普通の人でも専門的な内容のすべてを理解できる意
外な学問である。
 生物学、物理学、経済学について語るにはその分野の専門知識が必要で、多少の知識ではまるで理解
できない。しかし、それが何を対象にしているかは分かる。猫に髭があることは猫の顔を初めてみた人
にも分かるからそれは新知識であっても学問ではない。猫の髭についての学問的知識は無限的で素人に
は理解できないほど難しくなる。しかし、それが猫を研究している学問であり生物学の一分野であるこ
とは誰にでもわかる。
 
 ところが、あらゆる学問のうちで哲学だけはどんな分野のどんな内容の学問であるかがわからない。
そのために、経験的知識か多少の耳学問があれば哲学論をぶつことができると思われているし、山ほ
どある哲学書を読むまでもなく哲学談義は広く楽しまれている。哲学は専門知識がなくても語る事が
できる唯一の学問である。それは哲学がはっきりした専門分野を持たないからである。
 だから、中には真面目に真剣に哲学書を読む人がいても、その知識は世間では親しまれることはな
く、哲学をやるとはすごいですねぇ、の褒め言葉の80%は世間知らずですねという意味である。まと
もに哲学をやると変わり者と思われるか嫌われるか気の毒に思われる。たいていの学問は専門知識が
あるとほめられるが、哲学は専門的でないほうがまともと思われる。哲学がこのように扱われるのに
は理由がある。不当に扱われているのではない。
 
 ----哲学の内容が何かはわからないにしても少なくとも経験科学ではない----
 
 哲学が特別な扱いを受けるのは、哲学だけが正体不明の学問で、哲学の内容が何であるかが分から
ないからで、実際に特別な学問だからで、それは哲学だけが経験科学ではないからである。哲学とは
何かがはっきりしないから、あらゆる小難しげな怪しげな内容が哲学と言われて、それで奇妙でもな
んでもない。哲学は経験科学ではないが、経験科学ではない唯一の学問でありながらそれが理解され
ていないために、あらゆる経験的な内容が哲学の中に放り込まれる。
 それで、理性の話をし、哲学の話をするのならば、哲学とは何かをはっきりさせておくことが肝心
である。はっきりといっても、まずは断言しておくだけで証明はその後に続くすべての文章である。
 
 哲学はギリシャ以来あらゆる内容を扱い、あらゆる学問が哲学と言われた。経験科学が発展してく
るとその分野から哲学は追い出されて、次第に哲学とは何かが哲学の難問になっていった。それが哲
学史の発展である。
 で、哲学とは何かと問うて、さしあたり、人生論も世界観も価値観も哲学ではないし、何やらの信
念だとか観念だとか想念だとかも哲学ではない、と否定的に応えると、この時点で半分強の人は聴く
気が失せる。そんなことなら哲学の意味も楽しみも台無しになると思われる。
 まして、哲学とは一言で言えば論理学である、と端的に結論を言えば、残りの半分弱の興味が消え
失せて哲学の信頼は跡形も残らない。
 
 哲学は何の学問か分からないために、あの人の料理には哲学がある、あの人の生きかたはまさに哲
学的ですな、と何にでも使えて重宝している。哲学的と言われると意味は不明でも褒めているらしく
て悪い気はしない。要するにそれが何であるか分からないもの、どう表現して好いものやら分からな
いものを、肯定的風に深淵だったり深刻だったりするもののように表現するのに哲学的が使われる。
哲学は難しい学問であると同時に親しみやすい気軽な学問でもある。
 哲学はこのように重宝されてきたのだから、哲学は何かと問うたとき、何をどう考えても、哲学は
論理学である、とは誰も思わない。哲学が論理学であるとなるとなにもかもぶち壊しで興ざめで重宝
どころではなくなる。
 哲学に興味があっても論理学に興味がある人は少ない。しかし、実際は哲学は論理学であり、論理
学以外のすべての内容は哲学ではない。とはいえ、論理学は難しい学問であると同時に親しみやすい
気軽な学問でもある。
 
 ----哲学は論理学である----
 
 哲学は論理学で、論理学は経験科学ではないのだから、論理学を経験的意識によって理解すること
はできない。論理学は経験的意識の外にあるために論理学が何の学問であるかは経験的意識にとって
謎であった。しかし、そうであれば論理学が広く親しまれず好まれないにしても、それが何であるか
は分かっていないのだから、哲学が論理学であるとしても、それが何であるかが判ればまた好き嫌い
も新しい話になる。要するに今のところは食わず嫌いの食わず好みであるから今の好みも嫌いも更地
にすべきである。
 
 実のところ、論理学はとっつきにくい学問であるけれども心底嫌われているのではない。論理学と
いうと形式論理学を思い浮かべる人が多いのと、論理学とは何かがわからなかったために、なんとな
く疎まれているだけである。そうでありながら他方では論理学はむしろ特別に好まれる学問だといっ
てもいいくらいである。
 大昔に大学の初年度に論理学の講義を受けたことがある。論理学とは何かを知らず、論理学という
言葉の響きが気に入った程度であるが、論理学を収めると言えば何となく優れたことのように思われ
た。
 最初の講義に張り切って出席して、講義は超満員で、受講生が多いから講堂かなんかで受けた。満
員の学生の前で教授は毎年こう満員になるのですがすぐに学生はいなくなりますから心配しなくて結
構です、とかなんとか挨拶した。教授の言葉どおり二回目からさっそく学生は減り始めた。四回目の
講義となるとどれほど激しく減ったかは想像もできないが、おそらく加速度的に減っただろう。三回
しか出なかったのでその後の成り行きは分からない。
 
 今のところ論理学が面白くない学問であることは間違いない。蓼食う虫もと論理学を齧るのが好き
な人がいるとしても例外的である。しかし、論理学ではなく論理を理解する事、論理力を身につける
事、論理に強くなる事、等々は意味は分からないにしてもなんとなく魅力がある。人に嫌われるほど
論理力があるのでさえ悪いとは思われない。論理力があると繊細な感情に欠ける、というのは論理を
理解していないための誤解であるが、こんな誤解に基づいて論理力がありすぎて冷たいと非難を浴び
てみることさえ悪い気分より良い気分の方が多かろうと思われる。
 哲学も論理学も今のところ正体不明の学問であるが、それだけに他の学問と違った独特の神秘的な
魅力がある。そんな気がする人もいるだろう。日本人は論理力がないと言われ実際にそうであるから、
たとえ嫌われても論理に強くなる事は最悪であるとは思えない。嫌いな人もあろうが興味があり論理
力をつけたいと思う人も案外多いだろう。少なくとも論理に強くて害になるとは思われないだろう。
 
 そんなわけで、これから、論理学とは何かを解説してその魅力を明らかにする。
 
 ----論理学とはどんな学問か----
 
 論理学と言えば形式論理学を思い浮かべる人が多いだろう。AはAであって非Aではない、とか三段
論法だとか。こんなものを真面目にやった日には退屈で死にそうになる。いろいろ死にかたはあるに
しても論理学で死ぬのは特別に情けない。あんなものをやるからだと言われて同情もされない。
 しかし、形式論理学は認識論であって論理学ではないので心配する必要はない。論理学は簡単に言
うとカテゴリーの体系の学問である。カテゴリーとは何かを予め説明することはできない。実例とし
てカテゴリーの一つを取り出せば、たとえば量である。論理学は量とは何かを規定する。
 
 経験的意識によって量とは何かを考察することは決してできない。経験的意識は存在に縛りつけら
れているので、量とは何かと言えば必ず存在の量を考える。量はたとえば水1リットルだとか鉄1tだ
と考える。これは水の量あるいは鉄の量であって、つまり、水の話あるいは鉄の話であって、量の話
ではない。水あるいは鉄は存在であり、水の量は存在の量であり存在の規定である。しかし、量は存
在ではなく、量の規定は存在の規定ではない。
 論理学は経験的意識を内容としない唯一の学問である。経験科学ではないとは、存在を対象にしな
い、存在の規定を内容としない学問であることを意味している。哲学=論理学の内容が謎であったの
は存在の学問ではないからである。
 論理学の特有の難しさはここにある。水の量とは何かと、量とは何かの違いを理解することが何よ
りも難しい。論理学の難しさはこの点に集約されると言ってもいい。この点さえクリアできれば
哲学=論理学は経験諸科学より理解しやすい学問である。
 
 ----量とは何か----
 
 論理学は量を規定するが、量を規定するとはどういうことか、量とは何かを規定するとはどんなこ
とかをイメージすることがまず難しい。経験的意識は存在に捕らわれているから経験的意識の内部で
は量の規定に到達することはできない。量のカテゴリーを含めてこれまでの哲学史ではカテゴリーが
正確に規定されたことはない。
 量とは何かを最初に規定したのはアリストテレスで、彼は量を「増減しうるもの」と規定した。
ヘーゲルはアリストテレスの規定を批判した上で、「量は止揚された向自有である」と規定してい
る。ヘーゲルの規定は分かりにくいがアリストテレスより高度の規定である。こうした規定がどの
ような意味を持つかをここで説明することはできない。ただ、これらの規定は哲学史的な意味はあ
るにしても量の規定としては間違いである。結論から言えば、
 
 量は質の内的運動形式である。
 
 これが量のカテゴリーの規定である。
 ただし、これは権威のある哲学者による規定ではなく、一般に認められている規定ではなく、
一般に流布している規定ではなく、誰にも認められていない私個人の規定であって、哲学史上始
めての規定である。だから今のところ参考までの紹介である。とはいえ、これは量についての正確
でシンプルな規定であるから、量についてどれほど研究してもこの規定が否定されることはないだ
ろう。論理規定はこのようにすべてシンプルである。
 
 さて、
 このようなシンプルな論理的規定は、正しいのやら正しくないのやら、どんな意味があるのや
らないのやらさっぱり分からない。意味が分からないのだから、たとえこの規定が正しくても量
の規定を理解することにどんな意味があるのかは分からない。水や鉄や木の量を計る事ができな
ければ人生に差し障りがあるが、量の規定として「量は質の内的運動形式である。」を理解する
ことにどんな意義があるかはこの規定を何度唱えても理解できない。少なくともこの規定をまっ
たく知らなくても生きていく事はできるし、人類はこれまでこの規定を知らずに生きてきたのだ
から、これから先も知らずに楽しく生きて行けるだろうと思われる。
 
 ところが、そうでもない。
 
 論理学がある程度でも魅力的に思われるのは、論理力が理路整然とした思惟を意味すると思わ
れているからである。実際に論理は整然としているが、経験的意識が考える整然とはまったく意
味が違う。論理は経験的意識に縛られる事のない最も自由な運動形式をもっており、結果として
整然としていながら展開はまったくフレキシブルである。とは言え当然ながら、たとえば「量は
質の内的運動形式である。」といったカテゴリーの規定がどのような意味で整然とした思惟であ
り且つ自由でフレキシブルであるのかを理解することはできないだろう。論理学は経験的思惟で
はないのだから経験的意識の内部ではそのどのようなな性質をも理解することはできない。少な
くとも論理学が経験科学ではないのだから、論理学は経験的意識を整理する方法でないことはは
っきりしている。
 
 ----論理学は経験的意識とはまったく違う----
 
 論理力が経験的な思惟を整然とした形式に組み立てる力であるならば、論理は思惟形式であり、
思惟の形式を整える方法であることになる。ヘーゲルも部分的にはそのように考えていた。論理
が思惟形式であれば、論理によって思惟形式を整えて物事を整然とした形式で考察し記述し表現
することができる。そうした思惟には説得力があり動かしがたい力がある、と思われる。しかし、
それは整然とした経験的意識である。
 経験的思惟を合理的に法則的に整理するのは経験科学の仕事である。論理学が改めてそんな仕
事をする必要はない。論理学は経験的な意識の形式を整える学問ではない。論理学は経験的思惟
に従属した、経験的思惟を整理整頓する役割を果たす、経験的思惟の手段となる形式的思惟、思
惟形式ではない。論理学は存在を内容とする学問ではなく、したがって、何かについて論理的に
考える学問ではない。
 
 論理学は経験科学から独立した独自の内容を持つ学問である。論理学は存在の全体を一者とし
ての運動として規定する学問である。この規定は実は存在の普遍であり、経験的思惟の普遍とし
ての内容を持っている。このことによって経験的思惟は論理的に改変される。この関係において
論理力は経験的意識に対して威力を発揮する。
 
 ----論理学は日常的な学問である----
 
 この力がどのようなものであるかを説明するには哲学史の全体が必要であるが、さしあたり
経験的に説明しておくと、
 
 量より質だとか、何ごとにも原因があるだとか、すべての人間は自由であるとか、これは必然
であるとか、こうした質、量、原因、結果、必然性、偶然性、といったカテゴリーを人はありと
あらゆる場面で使っており、歴史が発展し認識が深くなるとカテゴリーはより多く使われるよう
になる。今ではカテゴリーなしに会話をすることは不可能なほどである。
 ところが、誰もが常識的に経験的にカテゴリーを使っているのにそのカテゴリーの意味を誰も
理解していない。習慣的に使っているだけでその意味を改めて考える事はない。誰でも使ってい
る自由とは何かを問われても、自由の規定は分からない。何らかの自由だとか何からの自由だと
か選択の自由だとか、具体的で実例的な自由は考察されるが、何かから切り離した自由自体は
規定しようがなく考察しようがない。水の量は理解できるが量は理解できないのと同じである。
ちなみに、論理学においては、量は質の内的運動である、と規定されるから、量より質、あるい
は質より量、といった規定はありえない。これは経験的意識がカテゴリーの意味を知らずに誤っ
て使っている例である。
 この誰もが日常的に使っているカテゴリーの内容を規定するのが論理学であるから、論理学は
ごく身近な、誰でも知り使っている言葉を改めて研究する学問である。論理学の内容は日常会話
の中で生きているものである。経験科学が規定する存在の規定より遥かに身近に無意識的に使っ
ているのがカテゴリーであり、その内容を規定するのが論理学であるから、論理学は経験的な意
識の内容ではないにも関わらず、ごく日常的な学問である。
 
 カテゴリーは日常会話の中で、存在と存在のもっとも深い関係を規定している。カテゴリーは
存在の規定と存在の規定の結節点となっている重要な言葉である。誰もがその言葉の意味を知ら
ずに使っているカテゴリーを正確に理解することが経験的意識の諸規定をより深く正確に規定す
ることになるだろうことは容易に理解できるだろう。
 
 ----哲学=論理学は認識論ではない----
 
 さて、もう一つ重要な、近代哲学史で生じた誤解がある。それは哲学が認識論として扱われた
ことである。しかしながら、論理学は認識論ではない。論理学と認識論の分離は重要で且つ難し
い問題で哲学史の最終的な成果としてのみ理解できる。両者を分離すると哲学=論理学も認識論
もはるかに簡単に理解できるようになる。
 たとえば西田幾多郎の「善の研究」は、単純な内容だと見るにしてもややこしい内容だと見る
にしても、その内容を規定するのは実に難しい。ところが、「善の研究」が認識論であることを
理解して、認識論として批判的に見ればその内容は驚くほど単純に規定することができる。哲学
問題であると考えると理解できなくなる。哲学上の難問が歪んで紛れ込んでくるからである。
「善の研究」は哲学ではないし論理学でもない。
 
 ----論理学は楽しく面白い----
 
 こんなわけで、哲学は論理学である。
 論理とは何かを理解し、論理力を身につける唯一の方法は哲学史を学ぶ事である。論理学とは
何かを理解することが哲学史の課題であり内容でもあった。だから、哲学史がどのように論理学
に集約されていくのか、カテゴリーがどのように発見され規定されていくのかを哲学史の流れの
中でを追うことが論理の理解である。哲学史を見れば論理学は独特の無限的な楽しみのある学問
であることが理解できるだろう。無論簡単ではなく、論理的な専門知識が必要であるし、真剣に
考察する必要もある。それは他の学問と同じである。
 
 論理学でとにかく難しいのは、存在を対象としない学問であることを感覚的に理解することで
ある。肩の力を抜いて哲学史に浸って、経験的意識から分離した純粋論理の世界で自由に遊泳す
る力を身につけねばならない。純粋論理の世界では思惟は経験的世界とはまったく違った振る舞
いをする。純粋論理の世界に入ることは難しいが、この独自の世界に入ることは特別に自由な解
放的な思惟の中に生きる事であり、得難い世界を体験をすることでもある。その世界への長い道
のりが哲学史である。
 
 論理学の諸規定はシンプルであるがそこにたどり着くには多くの論理的知識が必要である。植
物学でアブラナ科の花弁がいくつで枝がどのように並んでといった細かな知識を積み重ねていく
のと同じで、哲学史上のごく小さなエピソードや諸規定を考察しつつ、大量の論理的知識を学ん
でいくことによってのみ純粋論理の世界で楽しむ事ができるようになる。アブラナ科の花弁や蛙
の臓器はそこにある。しかし、純粋論理は見る事も触る事もできず、そこに存在しておらず、ま
た一般に存在ではない。それを捕らえるのが論理学の面白さである。
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2016/03/19 ◇093◇プラトン-10◇
2016/03/12 ◇092◇プラトン-9◇◇
2016/03/05 ◇090◇プラトン-7◇◇
2016/02/27 ◇090◇プラトン-7◇◇
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