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作家・歴史研究家の横山茂彦(著書に『軍師・黒田官兵衛に学ぶ絶対に負けない経営術』宝島文庫、『真田丸のナゾ』サイゾー、『大奥御典医』二見文庫など)が発行する、小説と歴史研究のメルマガです。

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メルマガ名
月刊小説クラッシュ
発行周期
ほぼ 月刊
最終発行日
2017年09月15日
 
発行部数
45部
メルマガID
0001670194
形式
PC向け/テキスト形式
カテゴリ
アート・文芸 > 文芸 > 小説

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『月刊小説クラッシュ VOL.20(2017年9月号)』
●本号の内容
  ★秋の超特大号★ 数日かけてお読みください

「全身麻酔 レポート1」 グラスマン

短編小説
「痴れもの姫様」前編 東葛亭春菊(とうかつていしゅんぎく)

ミステリアス官能巨編「危険なボディ」 高輪茂

ブログ
http://07494.cocolog-nifty.com/blog/

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★☆∵∴*・゜゜・*:.:*・゜゜・*:.:*・゜゜・*:.:*・゜゜・*:..:*:・゜★:* 
   「全身麻酔 レポート1」  グラスマン

 皆さんはほんの一瞬でも意識を失ったことはありますか? 話しかけても体を揺すっても中々起きないくらい深く眠っていたとしてもそれは意識を失っているのではないといいます。また、ここ最近問題視されている癲癇(てんかん)などのように病気で意識を喪失することがありますが、クスリの作用で人為的に意識を喪失させる行為がこの世に存在することは多くの人が知っていることだと思います。
いわゆる麻酔薬というクスリを使ってあらゆる感覚を麻痺させる……身近な例で言えば歯医者さんで掛けられる局所麻酔も立派な麻酔ですし、大きな手術の際に掛けられる全身麻酔という麻酔もあります。今回、私は持病の治療の為に手術を受ける決心をし、全身麻酔を経験しました。このレポートを作成している段階で約1ヶ月が経過しているのですが、あまりに強烈な経験だったので、ぜひともその時に感じたことなどをお伝えしたいと思います。

 事の始まりは約5年前。週末の土日を風邪気味のまま過ごした私は翌日からの仕事のハードさを考えて何とか体調を復活させるべくいつも通っているスポーツクラブのサウナで一汗かくことにしました。一種の民間療法的な考えですが中高生時代から風邪気味の時によくやっていた行為だったのです。これが災いして風呂上り直後から特に指先に力が入らない状態になったのです。
 かなり焦ったのですが、後にそれは風邪気味でお腹の調子も良くなかった上にあまり食事も採っていなかったことなどからくる脱水症状でした。日曜日の夜間に診察ができる病院を探して何とか辿り着いたのですが、診察をしてくれたお医者さんは当初から私の喉元あたりばかりを注視します。そしてついには、
「背後に立って喉元を触っていいか?」
 などと言う始末。さすがに違和感を覚えた私は、
「先生、私は手が脱力するんです。それと喉元と何か関係があるんですか?」
 と聞きました。すると、
「脱力は点滴ですぐに良くなるから心配ないよ。それよりもどうしても君の喉元が気になるんだよ」
 と、先生は全く譲る気配なく強行に私の背後に回って喉元、首筋、背中などを触ったかと思うと、
「今からエコー検査をさせて欲しい」
 と、真正面から私を見つめながら言いました。その眼力があまりに強烈で私は素直に「はい、分かりました」と言うしか選択肢はありませんでした。

 エコー検査の結果、
「良性か悪性かは断言できないが、君の片方の甲状腺は明らかに異常だ。結果的に良性であれば特に問題は無いが、悪性だった場合は年齢が若いこともあってとても心配だ。一刻も早く専門病院で診断を受けなさい」
 と、思いもよらない宣告を受けたのでした。

 4日後、予約を入れたその領域では全国的に有名な病院で診察を受けることになりました。たまたまその日は甲状腺の内科学会の日で内科の先生が不在とのことでした。初診が外科の先生になったのは、後々考えれば幸いだったように感じます。
 内科の先生であれば基本的に薬での治療を優先する傾向が強いらしいですが、いざ手術が必要となった場合、その時点で外科の先生に引き継がれるのが一般的だそうですが、私の場合は手術が決まった時点でそのままその先生にお願いすることができましたので、その点では手間が少し省けたのではないかと思っています。
 検査は一般的な採血、CT、エコー検査に加えて、甲状腺に直接針を突き刺して細胞を採取する細胞診などがありました。甲状腺のかなり奥まで届かなければいけないらしく、針の長さが突拍子もなく長かったことを覚えています。また、その太さもかなりのものでした。
 一週間後、検査の結果を聞きに行くと、
「病名は結節性甲状腺腫です。いわゆる良性の腫瘍でこのままの状態であれば特に今すぐ手術をする必要も無いし、ホルモン剤も今のところ必要はないでしょう」
 とのことでした。一週間「悪性」や「癌」の文字が脳裏から消えずかなり精神的に追い詰められていた反動で小躍りするほどホッとしました。ただ、先生はそんな私に釘を刺すように、
「ただし、この症状自体の原因は不明なだけに生涯良性のままかどうかは分かりません。逆にいつ悪性に変わってしまうかも分からないのが正直なところ。だから半年に1度のペースで経過を観察していくことをお勧めします」
と、真顔で先生が告げるのを私は判決を聞く被告のような心境で聞いたのでした。

 その後、私は半年ごとに病院へ予約を入れ診察を受けていくことになりました。職場へも報告をしていたので診察の日は大手を振って有休を使えるのがある意味楽しみな点でもあります。病院は神戸にあるので、その日は奥さんも必ず同伴するのが定番となりました。
 病院は全国的にも名が知れていることもあり、外来診察はかなりの待ち時間が発生します。しかし、それを織り込み済みで行けば私の場合は2時間くらいまでならあまりイライラすることはありません。スマホやタブレットを持って行って普段はあまりしないゲームなどをしていればあっという間に時間は過ぎていくので……よく病院の受付カウンターあたりで大声で喚き散らす輩がいますが、あれはとてもみっともなく感じます。「評判の良い病院は予約時間の幅は2時間くらいみるのが丁度良い」と肝に銘じておくことをお勧めします。

 半年ごとの診察を4、5回終えたあたりで、主治医のコメントに変化が出始めました。先にも述べた通り私の主治医は外科が専門です。
「今のところ大きな変化は無いけれども、もし腫瘍が気になっていらないと思うならいつでも切ってあげるよ」
 と、いう趣旨のコメントが必ず出るようになったのです。無類のビビリで名を馳せる私としてはそう簡単に体にメスを入れることを考えるはずがありません。そう言われる度、私は苦笑いをしながら「考えてみます」と言って診察室を出るのでした。
 ただ、一点だけどうしても気掛かりなことがありました。それは血液検査で必ず確認する「サイログロブリン2」というホルモンのデータ値なのですが、正常値が0~46という指標のところ、私の場合はずっと1000を超える数値を示していたのです。
 主治医もこれについては明確な説明はできないと断言していました。白黒をハッキリさせるには結局のところ手術で臓器を取り出し、詳細な細胞診を実施するしか方法はないのだそうです。そのことはこの5年間ずっと頭の片隅にあって、体がダルイ時などは、ふとそのことが原因なのか、などと考えてしまうようになっていました。

 そんな感じで定期的な経過観察を行っていたのですが、今年の5月の診察の際、主治医が今までにない真顔で私に告げたのです。
「サイログロブリンの値がついに1300を超えてきました。腫瘍の大きさも急激ではないですが徐々に肥大していることもあるし、どこかで悪性に変わる可能性もゼロではないことも考えたら、この辺で手術を真剣に考えてくれませんか?」
 先生の言葉がグサリと私の心臓に突き刺さる気がします。
(ついに来る時が来たか)
 そんなセリフが脳裏を過りました。
「仕事の都合などがあるでしょうから今日は予約などは入れないでおきます。決心がついたら近いうちに予約目的で私の外来に来てください。その時に手術全体の説明をしますからね」
 帰りの車内で私は奥さんに意見を求めました。すると、
「なんでその場で決めなかったの。悪いものは取るに限るでしょ」
 と、一切の迷いなく言い切りました。その言葉を聞いて私は一週間後に予約を取りに行くことを決めたのでした。

 一週間後。私の手術の予約日は8月8日に決まりました。パソコンの画面を使ってどの部位をどういう方法で切除するのかなどを丁寧に説明してもらい、その後身長、体重、血圧などを測って帰宅しました。その日から私はこの病気と一生付き合っていく覚悟を決めたのでした。また、私が勝手に師匠と慕っている方からいただいた、「人間は無病息災より一病息災くらいが丁度いい」という励ましの言葉も心にグッと来るものがありました。
 それから3日経った頃。携帯電話に主治医から連絡が入りました。
「実は……このままでは手術ができないかも知れません」
 いつもより深刻な先生の声色に私は一瞬嫌な想像をしてしまいました。
(もしかしてすでに悪性だった……そしてすでに手遅れの状態なのか)
 その場にへたり込みたくなるのを我慢しながら先生の話しを聞くと、
「実は体重が重過ぎて麻酔科の部長からクレームが出ているんです」
 聞けば、良性の可能性が高い手術に対して私のその時点の体重超過からくる全身麻酔時のリスクがあまりに高過ぎるのだとか。その時点の私の体重は94kg。身長が169cmですので麻酔科の医者が判断に用いるBMIの数値では32を超えてくるレベルです。
「先日入れた8月の予約を12月頃にずらして、その間計画的にダイエットをしれもらえませんか?」
 先生はお願いするような口調で私を説得に掛かります。
 私は即座に答えました。
「半年もダイエットを意識するのは正直嫌です。予約の日までの約2ヶ月でどこまで落とせばいいですか?」
 先生は電話口で苦笑いを浮かべているのが分かりました。
「最低でも85kgだね。手術日の時点でそこまで落としてくれれば麻酔科の部長は十分納得させられるけど……本当にできる?」
「やります。だから予約はそのままでお願いします」
 私はきっぱりと言い切りました。
「分かりました。あなたを信じて予約日はこのままにしておきます。ただし、1か月前の時点で一度外来に来てください。その時に術前の心電図検査やCT、あと声帯の状態を記録することになるんですが、残りの時間で約束した体重までのメドが立っていないようなら予約はキャンセルしますからね」
 先生は半ば私にお願いするような言い方でした。恐らく先生も勤務医として病院からノルマのようなものを課せられているのでしょう。一旦入れた予約を直前にキャンセルするとなると色々と責められたりするだと私は想像してしまいます。
(ああ、絶対に裏切れないな)
 毅然と言い切った私でしたが、電話を切った直後から強烈なプレッシャーを感じ始めたのでした。

 その日から私は久々にトレーニーモードに突入することになりました。10数年前に興味本位で足を突っ込んだボディビルの経験がこんなことで役に立つとは思いもよりませんでしたが、2週間ほどで体重は4kgほどストンと落ち、90kgはあっさりと割っていきます。6週間程を残して5kgを絞る訳ですが、まずは運動量よりも食事に気を配ることに注力しました。私が実行した食事法は次の通りです。
 朝はパン食が多いのですが、あまり制限をせずに好きなものを食べます。ただ、栄養面を考慮して必ず出勤前に粉末の青汁を流し込みます。
 昼は職場で手配している弁当を食べるのですが、ここでの注意点はご飯の量。決して多い訳では無いのですが、あえて普段の3分の2程度に制限しました。
 そして、私のダイエットのコツである間食は夕方の4時から5時の間に食べるオニギリです。小さめのオニギリを2つ用意しているのですが、これは体重が落ちにくくなった場合は1つに減らすことを想定しているのです。あえてこの時間に間食を設定しているのは、強い空腹の時間をできるだけカットする狙いがあります。強い空腹感が長時間続くと体のモードは体脂肪を蓄える方へシフトすると言われています。
 また代謝も鈍り気味になって体重が落ちにくくなる悪循環を招くのだそうです。一度に食べる量はあまり多くないように制限をして、食べる回数は1日3食ではなく5から6回くらいに設定するのが良いとボディビル時代に教えられたことを再現したのでした。
 結果、7月の診察時に87kgを記録し、手術当日まで3週間の時点で残り2kgのところまで来ました。手術当日に実際に麻酔を担当してくださる女性の先生からはお褒めの言葉を頂戴しました。
「ただし、あくまで85kgは割ってください。ここまで来たらできるだけ安全な手術にしましょう」
 麻酔科の先生が優しく言ってくれたのがなんとも嬉しい瞬間でした。
 その際に全身麻酔のリスクについて教えていただいたのですが、聞けば納得という内容です。
 人間の肺は空気の内圧で通常は風船状になっているのですが、麻酔で神経を麻痺させてしまうと当然自力で肺を動かすことはできなくなります。すると、肺はただの筋肉の塊にすぎなくなり簡単にペシャンコに潰れてしまうのだそうです。
 そうならないように麻酔科医は手術中は常に肺に送り込む空気の圧力などをコントロールするのだそうですが、その際に肥満の人の場合は腹部の脂肪などが原因で上手く肺を膨らませることができない状況になる確率が高いらしいのです。長時間肺の内圧のコントロールに手間取ると重篤な後遺症、つまり脳死や半身麻痺、全身麻痺などを引き起こすことがあるのだそうです。
 また、私にとって一番ショッキングだったのは、「術中覚醒」という現象。これはテレビなどでも紹介される特異な現象だそうで、医者が患者の状態を把握するモニター上では完全に麻酔が効いている状態であるのに、本人の意識だけが戻ってしまう状態のことをいうらしいです。また、最悪なのは意識だけでなく痛みの感覚も同時に戻ることもあるらしく、まさに本人は無麻酔で手術を受けているのと同じ状態になることがあるのだそうです。
 その恐ろしい術中覚醒の現象は肥満度が高い人の方が多くなるのだと、麻酔科の先生に真顔で説明された私は震える思いで残りの2kgを削ぎ落す決意をしたのでした。

 入院は手術日の2日前に決められているので、私は8月6日の日曜日に病院へ向かったのでした。いつもは車で阪神高速を走っていくのですが、奥さんは高速道路は走れないらしいのでバスと電車で行くことになります。普段あまり使わない交通手段も意外に新鮮に感じました。
 日曜日の病院はいつものイメージとは違い人影もまばらで閑散としています。普段は使わない建物の脇の出入り口で守衛さんにエレベーターの位置を聞いて指定された病棟へ行くと、中年の看護師さんが対応しれくれました。
「じゃあ、早速ですけど病室へ案内しますね」
 旅行用の小さめのスーツケースを引っ張りながら付いていくとまるで小洒落たホテルのような雰囲気の通路を歩いてある扉の前まで来ました。
「この部屋ですよ」
 そう案内されて入ってみると、畳で言えば15畳くらいの個室。シャワーは無いけれどトイレは付いているので居心地は良さそうだと感じました。
(ここで一週間の入院生活を送るのか)
 ふとそう考えると、私は自分が病人になったことを実感したのでした。ここ2ヶ月はダイエットの為にトレーニーモードでしたが、体重が落ちるにつれて身体が軽くなり、どんどん健康になっていく気がしていたので、そのギャップになんとも言いようのない複雑な気持ちになっていました。
(手術なんかしなくても元気に過ごせるんじゃないか)
 そんな気持ちにもなったのですが、病室に入ってみると冷静に、
(これは将来リスクを排除する為の手術なんだから)
 と、自分に言い聞かせたのでした。

 昼の2時頃に病院に入った後は、日曜日ということもあって特にすることがありません。正直なところ何のための2日前入院なのかは謎です。但し、後で請求する生命保険などは入院後4日目までは給付の対象外の場合が多いので、私は別段不満はありません。
 看護師さんに聞くと、病院の近くに銭湯があるとのことなので、暇つぶしに行ってみることにしました。
 そこはまさに昭和の雰囲気をありありと残すノスタルジックな空間でした。初対面なのに妙にフレンドリーな受付のおばあちゃんに入浴券を渡して、風呂エリアへ向かいました。するとすでに数人が壁際のシャワーで頭を洗ったりしています。ふと見るとシャツを着たままシャワーを浴びている人が……いやいや、それは背中一面に描かれた般若の紋紋でした。最近主流になったレジャースパなどは全面的に「入れ墨の方お断り」を掲げていることが多いので、実はかなり貴重な絵面だと思いながら眺めていたのでした。
 般若の紋紋は一見人の好さそうな中年のオッサンです。いくつかある湯船に気持ち良さそうに浸かりながら、踏ん反り返って荒ぶることなどなくあっさりと帰っていきました。私も一通りの作業を終えると、ブクブクと泡が出る湯船に浸かって明日からの生活を考えてみましたが、特に思いつくこともなく風呂から上がって帰ることにしました。
 吹き出る汗を拭きながらゴーゴーと大きな音を立てるダイキンの業務用エアコンの前で涼んでいると、初老のオッサンがやってきました。私の近くのロッカーにメガネなどの荷物を入れて服を脱ぎます。するとまた背中に和彫りの龍が。恐らくこの地区全体がそんな方々が多いのかもしれません。なにせ神戸は某有名巨大組織の本境地なんですから。そそくさと風呂エリアへ消えていく初老の昇り流を見送りながら私も病院へ帰ることにしました。

                続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
★☆∵∴*・゜゜・*:.:*・゜゜・*:.:*・゜゜・*:.:*・゜゜・*:..:*:・゜★:* 
 『痴れもの姫様』 前編
                   東葛亭春菊(とうかつていしゅんぎく)

 江戸城の南西、紀尾井坂ちかくにある高家旗本の上屋敷で、いましがた祝宴がおわったところだ。ここ数日、消息をたっていた姫様が無事に保護されたのである。探索に労のあった中間(ちゅうげん)や小者たちが当主にねぎらわれ、どうやら奥の間で飲みなおしをはじめている。
 だが、当の姫様はというと、どうも落ち着かない様子なのだ。
「お嬢さま、もうだいじょうぶでございます。どうか、もうお眠りください。あとは、われらがお守りいたしますので」
 世話係の若い中間がそう言うと、姫様は悩ましそうにひたいをこわばらせるのだった。御所(ごしょ)風のおすべらかしでまとめた長髪をみだし、白い麻の生地に透けて見える薄紅色の素肌に、軽い汗を浮かべながら。そしてときおり、太ももをキュッと締めては嘆息する。
「お、お水でも、お持ちしましょうか?」
「そうではないのです、わらわは……わらわは」
 腰をふるわせて、姫様がみずからの胸を押さえる。ゆたかな乳房が隆起し、その先端にある蕾が肌襦袢ごしに尖りをみせた。そのあでやかな仕草は、あたかも体内に興奮をやどした発情期の牝馬(ひんば)のようでもある。
「わらわの、わらわの腰を揉んでたもれ!」
「は、はぁ」
 中間はもとめられるままに、姫様の腰に手をのばした。やわらかく指先をつつみこむ、しかし張りのある脂肉の感触だ。
「もそっと、もっと前を!」
「は、はい」
「ああっ、あ……」
姫君が肢体をくねらせた。彼女はみずから太ももを開き、中間の指先をその中に挿(い)れたのだ。湯文字の奥底にひそめくように、淡い繊毛が微細な肉襞をまもっている、そのとば口にまで――――。
 ザラリとした内部の感触を指先に感じながら、中間は思わず自分の股間にもう片方の手をのばしていた。かれの眼前では、いつもは憧れている美麗な姫様が、四肢をふるわせながら女の愉悦を噛みしめているのだ。
「んあぅ!」
 中間は自分のイチモツを剥き出しにしながら、姫様のぬかるみの中を指先で探索した。袷(あわせ)の源(みなもと)に二本の指を挿しいれ、親指で悦楽の突起をさぐる。
 ひととき女の快楽にふるえ、姫様が絶頂をきわめた。
「んあッ、んおッ、うんんッ!」 
 ブルブルと腰をふるわせながら、姫様は喜悦の時間を愉しんでいるようだ。そして、中間が指を抜こうとした瞬間、おびただしい女の樹液が噴出した。とめどなく、それは真新しい白木の床を濡らした。
 そこへ、四十がらみの当主が姿をみせた。
「こ、これは、何としたことか!」
「も、申しわけございません」
 中間が股間を隠しながら平伏した。
「ちがうのです! わ、わたくしが……」
 ゆたかな胸元をみだし、白木の床を濡らしている娘の姿に、当主はおどろくしかなかった。置物のように慎ましい愛娘が、これまでに見せたことのない痴態をさらしている。まだつづいている悦楽の余韻に、ブルブルと腰をふるわせているのだ。
「何ということを……。そなたに、何があったのか?」
 娘は泣いているばかりだ。父親はその表情のなかに、娘の身に起きたことを察して慄然とした。

 翌日、頭巾姿の侍が、桜田門外の上杉屋敷を訪ねていた。相談ごとであるという。その侍は、上杉家の江戸家老・千坂高治にこう名乗った。
「拙者は旗本、石橋丹波守と申す。はばかりがあるゆえ、邸内においても頭巾をつかわせていただきます」
「石橋様といえば、足利御一門の高家旗本でござりますな。して、そのようなお方が、わが上杉家に相談とは、どのような?」
「じつは……」
 石橋丹後が言うには、四日前に上杉家が辻番役を務めていたとき、娘が増上寺からの帰りに愛宕山付近でゆくえ不明になったという。四日めに帰宅したものの、娘の様子がおかしい。どうやら、かどわかしに遭っていたらしいと。
さらに、最後は言いにくそうに、娘の肉体に淫乱の気がある。薬か何かによって、慎み深い娘の身に異変が起きているのだと打ち明けた。いまはやむなく、胤光院(いんこういん)なる婦人病平癒の寺院に娘をあずけ、淫乱症からの快復に希望を託していると、そう言うのだ。評定所に問い合わせてみると、おなじような事件が頻発しているという。町人地ではなく、武家地で若い女性たちが、かどわかされては淫乱症にされて帰宅していると。
そして石橋は、姫に狼藉をはたらいた者の成敗はもとより、娘を何とか元の状態にもどしたいと、平伏して懇願した。ついては、下手人の取り調べに立ち会い、快癒の方法を聞き出したいというものだ。
由緒ある高家とはいえ、旗本の禄は多くはない。動ける小者や郎党は何人も抱えてはいないのだろう。番役に失敗した上杉家の体面を刺激しつつ、その人数に期待しているのは明らかだ。
 石橋の申し出を諒解した千坂はすぐに、当主の実子で名代の虎姫の座敷に伺候してきた。
「そういうわけですので、明日は辻番役の者のほかにも、番役をふやします」
「それはよいが……。番役の者をふやしたら、かえって取り押さえる機会が、なくなるのでは? わたしが囮役になりましょうか?」
「と、とんでもありません。姫様に万一のことあらば、この千坂が腹を切らねばなりませぬ。賊は顔を頭巾で隠しているとのことですから、おそらく士分の者。それなりの腕の者を立てないと、取り締まれますまい」
「むぅ。しかし、聞けば賊の往来をゆるさぬのではなく、賊を捕えるのが目的なのでしょう? ならば少人数で、わらわが囮になって」
「いえいえ、なにとぞ、そのようなお考えは、おつつしみくだされ」
その夜のこと、虎姫は逗子入り仏を前に祈念した。
「仏様、お願いもうしあげます」
 この逗子入り仏とは、旅行をする機会が多かった中世の女性に好まれた携帯用仏壇である。虎姫が持っている逗子入り仏は上杉家がまだ長尾家だった頃からの伝来で、父の養母である貞心院(直江兼続夫人=お船の方)から拝領したものだ。
「どうか、わが願いをお聞き届けください。七つの仏様たちよ」
 虎姫の逗子入り仏は、七つの仏像から成っている。上杉家に伝わるものは、とくに中心にある金無垢の毘沙門天がまぶしい。
「先日の辻番で、わが手の者が失態を犯しました。失態によって、さる高家のご息女がかどわかされ、どうやら恥ずかしい事態になったのです。半刻も我慢できずに、自涜を欲してしまうとか。明日はわれら一門が辻番です。何としても賊を捕えたいのです」
 そう念じると、虎姫は知っているかぎりのお経を唱えた。オンベイシラ マンダヤソワカ、などと。
 すると、思いがけなく御仏からのお言葉があった。
「わが名を呼ぶのは誰じゃ」
 そら耳かと思うと、もういちど、
「わが名を呼ぶのは、誰?」
「は、はい。米沢藩主上杉定勝の娘、虎姫という者にござります」
「ほう、虎姫とな。わが名と同じじゃ」
「えっ? あなたさまは」
 虎姫は思わず顔をあげた。
「わが名は不識庵。かつて幼名をそなたと同じく、虎姫と呼ばれたものよ。別名を虎千代とも言うたかの。おお、懐かしいことじゃ」
「そ、それでは……」
 虎姫も知らないわけではなかった。上杉家中に固く秘匿された伝承。それは、藩祖上杉謙信公の知られざる秘密だった。謙信公は女人なり、と。
「不識庵様とは、謙信公の庵名にそうらわずや?」
「いかにも、われに謙信という法名あり。虎姫というからには、そなたも寅年生まれか?」
「は、はい」
 虎姫が嬉々として答えると、不識庵も機嫌よさそうにつづけた。
「ふぅむ。寅年生まれなら今年で十七になるのか?」
「はい。父は定勝と申します」
「よく知っておる。わが不肖の息子と四辻の姫のあいだに生まれた、一つぶ種ということじゃな。なかなかしっかりした藩主様という。その娘がそなたであったか」
「さようにござります。いまは父上が国元ですので、病がちな母に代わって名代を務めております」
「名代を? 女子の身で、それはご苦労なことじゃ」
 ややあって、ふわーっと不識庵の姿があらわれた。白無垢の胴肩衣と金無垢の袈裟をまとった、うつくしい尼僧姿である。
「ふむ、目鼻だちも眉目秀麗。虎姫という名にふさわしき美しさよ」
 などと、虎姫に見入っている様子だ。
「薄紅色の頬も、柔らかい長髪も、わが身に生き写しのごとし。立ってみよ」
 虎姫が立ち上がると、不識庵はクルクルッと動きまわっては、彼女の体躯をたしかめている。
「脱いでみよ」
「はぁ……?」
「小袖と襦袢を、脱ぐのじゃ。早くっ」
 自分は宙空に止まったまま、不識庵が脱衣をうながした。すでに夜半とはいえ、室内は月明かりに照らされている。対面の廊下を歩く家中の者たちがないわけでもない。虎姫は仕方なく襖(ふすま)を閉めた。
 そして、ゆっくりと小袖の前をひらき、襦袢の袖口を肩からすべらせる。すぐに可憐な蕾がのぞき、年頃の娘らしい胸の膨らみがあらわになった。若々しい臀部はキリリと締まり、これから女ざかりを迎える気配をみせている。そして、うっすらと生えそろった繊毛。
「ふぅむ。容貌といい背の高さといい、わたしの若い頃には劣るものの、なかなかの美しさよ。尻も胸も、わたしのほうがもっと大きく、形もよかったが」
 虎姫はとっさに胸を抱くように隠していた。
「それで、何の祈願なのです?」
「じつは」
 虎姫が仔細を話すと、不識庵は首をかしげながら言うのだった。
「武家の娘ばかり襲うとは、おそらく暇をもてあました旗本奴か、あるいは江戸詰めの大名の次男坊三男坊。いずれにしても、頭巾で顔を隠しての犯行とは卑怯千万、女子の敵じゃ。しからば、これを授けるゆえ見事に捕縛してみせよ」
 不識庵が金襴で拵(こしら)えた脇差しを取り出した。
「わが名刀・姫鶴一文字と対をなす業物(わざもの)じゃ。そなたの背丈からして、使いやすかろう。これを一閃すれば、着ているものはそのままに相手の筋を動けなくする」
 ちょうど猫が虎姫のひざに上がろうとするところ、不識庵が脇差しを抜いて振った。
 猫は「ニャイン」と鳴いたまま、動かなくなった。
「おタマ!」
「案ずるな、半刻もすれば治る。健闘を祈るぞよ。わたしが思うに、胤光院なる寺院の名称が怪しい。心せよ」
 そう言い置くと、不識庵は霧のように消えてしまった。
 虎姫は厨子入り仏の扉を閉じると、脇差しの刃を肌にあててみた。妖しいかがやきが素肌に月光を照らし、そこだけ夜陰に映えた。
気分がそそられる。そっと股間のはざまに指を入れて、このところ癖になっている行為に耽った。これをおぼえてからというもの、彼女の身体はやわらかい脂質に包まれ、肌が光沢をもつようになっている。
「うぅ、うんッ」
 はざまの頂点にある、鞘に包まれた突起に触れてみた。身体の奥がビクンと反応するのを、心地よい陶酔のなかで受け容れる。そこから先は、めくるめく酩酊と宙空に浮かぶ快楽が待っている。
「んはぁ、はあッ、はぁ」
 いやでも喘ぎ声がもれる。虎姫はおもわず自分の口を手でふさいでいた。人の気配があった。
「姫様」
 その声に、虎姫はあわてて行燈(あんどん)の火を消した。近習の小島弥三郎の声だ。
「もうお眠りでございますね。いま、伊達光宗様がおみえですが。追い返しましょうか?」
 伊達光宗といえば、以前登城のさいに知り合った若侍である。千坂高治に聞けば、仙台の伊達忠宗公の次男坊だという。
「通すがよい」
「しかし、この夜更けに……」
 虎姫はあわただしく寝着をつけた。上気した頬をさとられぬよう、おしろいをはたいた。
 面会がかなうと、伊達光宗は嬉々として言った。くだんのかどわかし事件について、幕府評定所から番役を出すよう、お達しがあったというのだ。
「明日から、上杉家の応援として、それがしも辻番役の横目(監視役)として頑張ります。姫様もぜひ、見にきてくだされ」
「ふむ。光宗殿の若武者ぶり、見せていただきますとも」
 相手の好意に、虎姫は悪い気はしなかった。
「もはや時刻も遅ければ、それがし今宵は、この座敷に泊めていただきたいのですが」
 さては夜這いに来たかと、虎姫は胸がときめくのを感じた。小島弥三郎が応じた。
「伊達様、仙台藩の浜屋敷は指呼のさきではありませんか。お帰りください。明日は、横目役なのでしょう。どうか、お帰りください」
「だまれ、この下郎!」
「下郎ですと? わが小島の家は、越後いらいの上杉家旗本にござる」
「よいよい、わたしが宿泊をゆるします。ただし、わらわも嫁入り前の身じゃ。光宗殿には納戸に寝床を用意するゆえ、ごゆるりとされよ」
「納戸に、ですか……」
「伊達さまには言うまでもなく、姫様のお座敷は、この小島弥三郎が寝ずの番をいたしまする」
 自分で納戸に寝ろと言っておきながら、虎姫はなんとなく残念だった。

 翌朝、おそい朝食を摂ると、虎姫は小島弥三郎をともなって桜田門から大手門まで視察した。至るところに辻番役の者たちがたむろし、なかには軍装している者も散見される。
「これでは、賊が出ようにも出られぬではないか。千坂の爺のなんという思慮のなさ。無駄な警備じゃ」
「さようで」
 寝ずの番をした弥三郎は、虎姫の歩みに付いてくるのが精いっぱいの様子だ。
「そなたも、使いものになりそうにないのぉ」
「はぁ、申しわけござりません」
 そうしているうちに伊達光宗の姿を、竹に雀の家紋の旗指物のなかに見つけた。
「光宗どのぉ! こっちじゃ」
 光宗が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「このありさまでは、例の賊は出て来ぬであろう。われらは、町人地にでも行ってみよう」
「いえ、虎姫さま。賊は武家地でしか犯行におよんでおりません。日本橋から神田、あるいは半蔵門方面に出張ってみましょう」
 と光宗。
「うむ、では午前中を日本橋方面、午後は半蔵門から四谷あたりにしましょう」
「御意」
 想像したとおり、午前中は何ごともなく過ぎた。虎姫一行は神田で蕎麦を食べて、いったん小石川のほうにまわって、夕刻に四谷経由で半蔵門に達した。
「来たぞ、あやしい集団じゃ」
 半蔵門をすぎたところで、駕籠(かご)をともなった数人の集団が近づいてきた。いずれも頭巾をかぶり、屈強な足どりで近づいてくる。

(つづく)
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ミステリアス官能巨編 『危険なボディ』 連載第20回
                           高輪茂

 真の恋愛は死の観念をありふれた、容易な、少しも怖くないものにする。(スタンダール『恋愛論』断章46)

【前回までのあらすじ】25歳の銀行員・有馬大輔は派遣会社のシステムエンジニア・三好奈緒美に憧れているが、彼女の素顔がわからない。40歳の飯沼次郎は自動車メーカ―から販売会社に派遣されたエリートだが、趣味のスポーツバイクで知り合った名も知らぬ女性が気になっている。還暦をむかえた福原総一郎は、飯沼の会社のイベントを手がける代理店社長。彼はいきつけの酒場のパート店員に、高校時代の記憶の女を重ね合わせている。仕事で接点のある三人が、それぞれに憧れる想い人は、30歳ほどの美女なのである。

第五章 愛と死の儀式


 翌日の飯沼次郎は、久しぶりに有給休暇を取った。いつもなら妻子のいる名古屋に帰るところだが、晴々とした気分が彼を自転車に駆り立てた。
このかん、あまり自転車に乗れていなかったのだが、欠かさなかった定時のトレーニングでもあの女と顔を合わせることはなかった。そのために、多忙な時間を割いて、自分なりに調査もしてみた。その成果が思わぬ形であらわれるはずだと思う。
 抜けるような晩夏の空である。時間さえあれば、こんな日に走らない平日ライダーはいないはずだ。そう思った瞬間だった。遠目に、彼女のそれらしい姿が認められた。
「何て幸運なんだ、この俺は。……いや、やっぱり来たぞ」
 と、飯沼は思わず自分に語りかけていた。
 同時に、彼女のほうもこっちを探していたのだと確信した。ここ二週間ほど、彼女は定時のトレーニングに出てこなかったはずだ。その事情はともかく、飯沼は彼女のロードバイクの車種を手がかりにその正体を探っていたのである。
 このあたりでは最も大きなプロショップを訪ねて、それとなく探りを入れてみたのだった。
「赤いデ・ローザですか? どうかな」
 と、年輩の店長は首をかしげたものだ。
「ギアコンポはカンパニョーロ、フルカーボンの赤いデ・ローザだよ。歳は三十歳ぐらいだったかなぁ」
 用件はハンドタオルを拾得したので、持ち主と思われる女性に返したいという方便だった。
「このあたりでカンパを扱ってるのはウチだけですけどね、若い女性でねぇ」
 店長が話を振ると、若い店員が即座に反応した。
「それなら、ナオミって人ですよ。ほら、このあいだ秋物のウエアを注文しに来てたでしょ、けっこう本格的なロード乗りですよ。車体もウチで買ってますし」
 それだ! 飯沼は心臓がドクンと音を立てるのを聴いた。
「連絡先とか、わからない?」
「ええと……、ないですね。たしか、防犯登録のときも住所が東京だから、自宅の近所のショップでやってもらうとか言ってましたね。でも彼女、登録マーク貼ってないんですよ。ロードに乗る人はフレームに貼るの嫌がるんですよね。罰則があるわけじゃないから、いいですけど」
「そう、東京の人なのか。整備はよく来るの? 走行会とかには、一人で?」
 このあたりは、彼女に配偶者がいるのかどうかを確かめる質問だった。
「まぁ、年に何回かですね。来られるときは、リアメカの調整なんかシビアな要求をしますけどね。けっこうレースにも出てる本格派みたいですよ。ウチの走行会には、あまり来てないんじゃないかな」
「すごく速いよ」
「そうでしょう。走り込んでる人は、アウターギアの減り方でわかりますよ。あと、ペダルのクリートの磨耗がすごかった。フレームの傷もすごいし、クロスカントリーでもやってるんじゃないかな」
 などと、若い店員は能弁だった。
 おそらくナオミというのは、苗字ではないのだろう。どうやら住所も電話番号も、意識して隠そうとしているように感じられる。女の謎が深まるのは、それはそれで心地よい感じがする。
「ウチで預かって、渡しておきましょうか? そのタオル」
「いや、じつは今日は持ってきてないんです。買えば高いブランド物だし、そうだ、僕の名刺を置いていきましょう」
 これで何か反応があればと、飯沼は所期の目的を果したのだった。週に一度、彼女と会えないだけで胸騒ぎが治まらない。まるで初恋に身を焦がす高校生のようだと、飯沼は自嘲していた。
 そして数日後、彼の留守中に所在を確かめるような電話があった。賄い婦さんはすぐに雰囲気を察したらしく、「飯沼さん、若い女子にモテるのはいいけど、お気をつけあそばせ」などと笑ったものだ。
 それから飯沼は、自転車競技の実業団登録の女子選手を可能なかぎり検索し、ナオミという名前を探したのだった。残念ながら、ナオミという名前の選手を見つけることは出来なかった。深まる美女の謎のゆくえに、飯沼は幾晩か夢想をたくましくしては酩酊したものだ。

 飯沼がスピードを増すと、それに気づいたのか、彼女はいつものように木陰で停車した。
化粧を直しているのか、それとも日焼け止めを塗っているのか。いずれにしても、飯沼を待っているのは明らかだ。
 飯沼もロードバイクを森の中に滑走させ、ゆっくりと停車した。
「やぁ、こんにちわ。久しぶりにお見かけしました」
 と、飯沼は声をかけていた。
「こんにちわ。今日はいい天気ですね、風もあまりないですし」
 飯沼が初めて聴く、彼女の清らかな声だった。響きは細いのに線が強い、天使のような声だと思った。言葉を交わしただけで、飯沼の目的の過半は達せられた。
 ハンドタオルの件が障害になりかねないと案じていたが、こうなれば結果オーライである。
「本当に、いい天気だ」
「ええ、秋の入り口は素敵ですね。心が洗われるよう」
 初めて聴く彼女の澄んだ声に、飯沼はなぜか股間を硬くしていた。
 いや、彼女の声に反応したのではなかった。久しぶりに会う彼女は、自転車をタイムトライアル用のものに変え、身に着けているジャージも肉体の微細な線を浮かび上がらせるような、トライアスロン用のものだったのである。
 しかも、その生地は薄手の灰白色である。厚い素材の水着ですら、薄い色は濡れると素肌が浮き立つので敬遠されるものだが、彼女は汗に濡れた肌が浮き出るのも構わない様子だ。
「トライアスロンを?」
「ええ、先週は沖縄だったんです。だから、皆さんにも御無沙汰して」
 などと、彼女は会えなかったことを詫びるように言った。これは聞く者には、必要以上のお詫びである。その先にある意味を考えて、飯沼は胸がときめくのを感じた。
 同時に、ショップの店員が言った彼女が本格派だという裏付けに、ひそかな悦びを感じた。
「いや、私も先週はほとんど乗れなくて。イベントがあったもんですからね」
「あら、そうだったんですか」
「会えてよかった」
 相手の笑みを確かめると、飯沼はその肢体に目を這わせた。
 トライアスロン用のピチピチの白いジャージは、彼女の肉体の細部まで浮き立たせている。ある意味で、それは全裸よりも生々しい姿である。だがそれでいて、淫靡なものを感じさせないのは彼女の若さであり、健康な美しさであろう。汗ばんで赤くかがやく素肌に、飯沼は神々しいものを感じていた。
 久しぶりの出会いだったが、男同士ならすぐに話に火がつく自転車談義にもならない。しばらく、二人は黙したままだった。
 ややあって、
「印旛沼まで走りますか?」
 と、彼女が両手を前に出して飯沼の視線を遮(さえぎ)った。
 彼女はここまで、全身に飯沼の視線を痛いほど感じていたことだろう。まるで男の好奇な品評の視線に耐えるように、もしかしたら、彼女はそれを苦痛に感じていたのかもしれない。飯沼は恐縮した。
「どうします?」
 もう一度、笑うように訊いてきた。
「え、ええ。いっしょに走りましょう、ぜひ」
 まったくの僥倖だった。彼女のほうから誘ってきたことに、飯沼は言葉を返せないほど驚いていた。
「じゃ、行きますよ」
 と、彼女が笑った。
 平日ということもあり、二人は狭いサイクリングロードを並走した。
「沖縄というと、宮古島のトライアスロンですか?」
「ええ、そう。入賞は逃しましたけど、何とか完走できました」
 ふたたび彼女がわらった。
「すごいですね。僕なんかランがダメですね、もう、すぐに膝にきて」
「膝を真っ直ぐに、気をつけて走れば、すぐに筋肉はもどりますよ。ご存じだと思いますけど、膝の関節の故障も筋力しだいですから。スイムもウェットスーツを着れば誰でも泳げますし、鉄人レースといっても七十歳代まで楽しめるんですよ」
 などと彼女はひとくさり、自転車とトライアスロンの素晴らしさを語った。
 しばらく黙したまま走ると、こんどは飯沼が話しかける番だった。
「あなたの、お名前は?」
 と、飯沼は思いきってプライベートに踏み込んでみた。
 サイクリングロードで初対面の相手と一緒に走るのは、あまり珍しいことではない。
 けれども、たいていは自転車談義に終始して、相手の名前を聞いたりはしないものだ。あくまでも同好の士であり、プライベートに踏み込まない。一期一会のごとき振る舞いが、サイクリストの付き合いの秘訣とされているかのようだ。
「あなたは、あなたの名前は?」
 と、相手がわらって返した。
「私は、飯沼と申します。飯沼次郎、名古屋の自動車メーカーの営業所勤務といえば、どこだかわかるでしょ。単身赴任なんですよ」
「あら、名古屋から」
 と、相手は興味を持った様子だ。
 つぎに会うために、飯沼は出来るだけ自分の情報を開けっ広げにしておきたかった。単身赴任と言ったのも、妻帯しているがこっちではフリーであること。つまり、浮気は可能だというメッセージである。
「あたしは……、斎藤と申します」
 飯沼は咄嗟に彼女のジャージのネーム欄を見たが、そこには何も書かれていなかった。トライアスロンの場合は海難事故に遭う可能性があるのと着番を間違えないために、ジャージにネームを書くのが通常なのである。おそらく、斎藤というのは偽名だろうと思った。
 彼女の対応に何となしがっかりした飯沼は、話題を転じた。
「ご主人も自転車を?」
「いいえ、夫はおりませんから」
 と、ミス斎藤が顔を赤らめた。飯沼も思わず彼女の顔を見ていた。
「この歳で独身って、不思議?」
「多いですよ、三十代で未婚の人は。うちの営業所でも何人いるだろう。斎藤さん、下のお名前は?」
 と、飯沼はさらに踏み込んだ。
 女性を苗字で呼ぶのと名前で呼ぶのとでは、まったく雰囲気が変わってくる。そのひと言で、ふたりの空気が一変するはずだ。
「じゃあ、直美と呼んでください。直の直美です」
 と、相手は飯沼の要望に応えてくれた。
「直美さんですね、素敵な名前だ」
「……そうかしら」
 予想したとおり、空気は一変していた。ナオミ……! これで、プロショップの店員の証言は裏付けられたことになる。
 もう彼女は、親友と呼べる場所まで来ている。あとは、恋人と呼べる場所までの距離を縮めることだ。
「直美さん、少しスプリントを!」
 先に走り始めた飯沼はギアのトルクを重くすると、ダンシング(立ち漕ぎ)でスピードをあげた。遅れてスタートした直美はピッタリと付いてきた。
 やや勾配のある登りに入ったが、ケイデンス(ペダルの回転)は最適とされる毎分九十を維持している。スピードが四十キロ台に達し、本格的なロードレースのスピードとなったのだ。
 坂を登り詰めると、なだらかな斜面に入る。
 道の狭さに危険を感じた飯沼は、片手で減速をアピールした。つぎの瞬間、彼は風圧を受けながら抜き去られていた。直美は角のようなダウンヒルバーに伸ばした両手に体重を預け、まさに弾丸のように坂道を滑降して行ったのだ。
 運動神経だけをくらべれば、掛け値なしに飯沼は直美に遅れを取るだろうと感じた。おそらく日本人女性の中でも、トップクラスのトライアスリートなのではないかとさえ思われた。
 印旛沼の取っつきで待っていた直美に、飯沼は思わず苦笑しながら言った。
「すごいな、瞬殺で置いていかれましたよ。私には、ああいうアタック精神はないな」
「下りのスピードは慣れですよ。でも、普通に走るなら必要ないわ」
 と、直美がひたいの汗をぬぐった。
「あたし、ひと泳ぎしますけど」
 こんどはスイムの練習をするというのだ。沼は遊泳禁止だが、トライアスリートたちはかまわず泳いでいる。
「悪いけど、ここで観てますよ」
「そうしてください。お昼、どこかでご一緒しましょうか」
「そいつぁ嬉しい」
 直美の誘いの言葉に、飯沼は心臓が飛び出すほど感激していた。何とかして親しくなりたかった相手が、みずから食事に誘ってくれたのである。
 もしや、彼女のほうも同じようなことを考えていた? だとしたら、今日は夜中まで付き合うことになりそうだと、飯沼は甘ったるい気分が広がるのを感じた。ドーパミンが脳内を溶かすような快感は、ひさしく経験していなかった。
 見ていると、直美が沼の水面につま先を入れた。ドーンと飛び込むのではなく、直美は腕を伸ばして静かに泳ぎはじめた。
 伸びきった躍動的な脚が、水面に映えて美しい。切り立った崖の影になっているところまで行くと、直美は伸びやかな立ち泳ぎで飯沼に手を振って寄越した。飯沼も伸び上がるようにそれに応えた。
 恋人同士のように振る舞う彼女の雰囲気に、飯沼はふたたび股間を硬くしてしまっていた。もう誰が見ても、恋人同士の振る舞いにしか見えないはずだ。
 直美を昼下がりの独身寮に誘うのは、彼の規定方針だった。
 さいわいにも、寮母は所用で東京に外出すると言っていた。独身寮といっても昨年改装したばかりの最新式の設備である。戸別になったシャワールームにたっぷりとダブルスペースのあるベッド、全体として隠れ家のような佇まいは、下手なラブホテルに行くよりも豪華な印象なのである。そんなことを考えると、ますます股間が硬くなってきた。
 規矩正しいクロールでスピードを上げると、直美は沼の反対側で折り返した。ちょうど逆光の陽射しが水面に映えて、飛沫がキラキラと真珠色に輝いている。柔らかそうな筋肉をくねらせながら泳ぐ姿は、セクシャルなヴィーナスの誕生を思わせた。
 目もとの表情はゴーグルで隠れているが、やさぐれた印象を与える男性のサングラスと違い、却って女性の表情を精悍に引き立てるものだ。しばらく、飯沼は彼女の勇ましい表情に見入っていた。
 やがて河岸に上がると、彼女はひとしきりタオルで水を拭(ぬぐ)った。
 白い生地が濡れたせいで、トライアスロ用のジャージがきめ細かく輝き、彼女の筋肉の輝きや微細な肌の表情まで見せていた。素っ裸よりもいっそう、彼女の裸身を剥き出しにしているように、飯沼には感じられた。
 じっさいに、彼女の乳首が赤く色づいているのを、白い薄手のジャージは持ち主を裏切るように露出してしまっているのだ。いっそう凄まじいと思えたのは、六本の筋に割れている彼女の腹筋だった。これは至高の女体美だと、飯沼は感動を覚えた。
「食事は、あたしが知ってるお店に」
 さすがに直美の顔が空腹を訴えている。
「タオル、僕のを」
 飯沼がタオルを差し出すと、彼女は遠慮しなかった。
「すぐ乾くんだけど、拭くと気持ちがいいわ」
「じゃ、行きましょうか」
 一刻も早く、彼女の気が変わらないうちに、うち解けた話がしてみたかった。
(つづく)
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(・ω・` )_
O┬O ) /   
◎┴し'-◎ ≡   



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