「調査の野村」と「営業の野村」
野村財閥創始者の野村徳七翁は相場で成功して巨富を成したが、直後「相場を当てることを生業としてはならない。国の経済を調査し、景気を読み、企業業績を精査して『投資』するのだ」として、「調査の野村」を標榜してブランドを確立した。
したがって、たとえセールストークの弱い野村営業マンが話していても、「背景には強力な調査網があるはずだ」と顧客が勝手に解釈してくれることで商談が成立した。
本当は「営業の野村」だったのだ。「数字が人格だ」が全社の合言葉だった。数字とはもちろん営業成績のことだ。そして各支店の営業実績は構成員の人数で割り算されて「1人あたりナンボ稼ぐ」が絶対の価値観とされた。
もちろんその一覧表は日々、全国の支店に配布される。よって出来の悪い営業マンはいない方が分母が減って支店のためになる、そんな社風だった。毎夕16時に届くその表は、彼らにとって「魔のPH(パーヘッド=従業員1人あたり売上高)」と恐れられる一方、出来のいい支店にとっては「心おどるPH速報」ともなった。
野村には「人材」という言葉がなかった。そのかわり真に稼ぐ者を「人財」と呼び、いるだけで支店営業マンの分母を増やして害になる者を「人罪」と呼び、いてもいなくも良い者を「人在」と言った。タダいるだけ、の意だ。
「人在」は「人罪」に転化するから、自然、強い支店ほど「人財」が集中することになる。そこでは転入してくる「人材」も「人財」に変身していく。営業場は道場でもあった。とりわけ卓越した「人財」は、ペロ(売買伝票)になぞらえて「ペロイングマシン」と呼ばれたが、野村において、これはもちろん最高の尊称だった。
筆者が考える「調査の野村」の実力と注意点
さて「調査の野村」としては創業40周年を期して鎌倉に野村総合研究所を創設し、多くの理系社員を入れて理系科学をも研究させた。これが日本の「総研」の嚆矢である。それは重油を食うバクテリアを培養して四日市の汚れた海を綺麗にするというようなビジネスモデルを作ったが、それ以外にカネになるものは開発されず、ついに総研の名はそのまま残し経済研究所を都心に移した。その経済研究所は当代一級の経済学徒が集結する場となった。
したがってその経済データは信用してよく、特に企業業績などミクロの世界には断然の強みを持つ。だが、マクロの調査では時に大間違いを犯すこともあった。1970年の大阪万博の来場者はケタを間違えて過少予測したし、出店場所ごとの繁盛予測なども間違えた。
さて、これと年末の株価予測とは別である。当たるか外れるかの問題ではない。
野村、大和、日興など大手証券は、全国津々浦々の社員が投資信託を売って歩くわけだから、将来は常に明るくなくてはならない。大手証券、特に野村、大和の万年強気の真因はここにある。
そして、外部要因が悪化すると予測値を引き下げる。外部要因が好転すると予測値を引き上げる。
これはちょうど、市場で指値売り注文を出したものの株価が上がるにつれ指値を上げていって遂に売りそこない、塩漬け株を抱いて大底圏を買う金もなく過ごす優柔不断な顧客に似ている。
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