私の大家道~底辺バイトが「家賃収入1700万円」に這い上がれたワケ=峯島忠昭

先日、とある本の取材を受け、私自身の話(サラリーマン時代から起業した現在までの話)をさせて頂きました。最近は取材を受けることがたくさんありますが、不動産投資の話をすることが多く、自分の話をすることは少なくなってきています。今までの人生を振り返ると、まあ、波乱万丈だな…という感じです。そこで、今回はそんな私の過去を振り返って紹介しようと思います。(『水戸市のサラリーマン大家さん』峯島忠昭)

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満室時の家賃収入1700万円「水戸大家さん」の半生と成功の秘訣

「年収の上限が見えた」高校卒業からスポーツクラブで働くまで

高校を卒業して最初に就職したのは、居酒屋です。これは正社員ではなくアルバイトだったので、正確には就職とは言えないかもしれません。その頃は、高校を卒業したその日にカバン1つで東京の小平市に出てきて、居酒屋にアルバイトとして就職したわけです。

(ちなみに私が卒業した高校は、県でもたぶん1〜2位を争うような勉強ができない学校で、近くて簡単に入れるから…という理由で選んでいます。)

なぜ、いきなり東京の小平市に行ったのか?というと、高校生の時から付き合っていた彼女が学芸大に通っていたので、その子のアパートに転がり込んだのです。そして居酒屋でのアルバイトを半年くらいやって、自分の家が借りたいと思って、新聞配達を正社員としてやりました。新聞配達に就職した理由は、寮があるので自分の部屋が借りられたからです。

その後、ちょっとだけ職人さんになってみたかったので、半年ほど防水屋さんで働きました。そこは高所作業が多く、私は高所恐怖症なので、長くは続かなかったです(笑)。そして、詐欺みたいなものにあって散々な思いをして、東京を後にします。

今思うと、この頃は夢も希望もなかったですね。

その後は茨城に戻り、スポーツクラブのインスタラクターをアルバイトでしていました。その少し前にはパチンコ屋で働いたのですが、そこはお給料が良いから…という理由で選んだものの仕事がキツすぎて、3ヶ月で辞めました。

そんな経緯があったので、自分の好きな仕事ならずっと続けられて、やがてその分野で成功できるかも?と思い、自分が好きな「トレーニングの分野」の仕事をしようと思ったのです。

まぁでも、アルバイトで入りましたが、正社員になっても「長時間労働」「低収入」であることは社員と一緒にいるとわかりました。また、その会社でトップの正社員になったとしても、収入はたかが知れていることが長く働いているとわかってきました。自分でスポーツクラブを経営する…ということも考えられなくはないですが、まぁ、それは現実的ではないです。

昼間も当然に働いていましたが、スポーツクラブに昼間に通ってくるような人は、お金に余裕のあるおじいちゃんやおばあちゃん、もしくは経営者がほとんどでした。ある日、そんなお客さんたちの中の一人で、仲良くなったおばあちゃんに「こんなところに長くいるもんじゃないよ」って言われたのです。お金持ちの人から見れば、地方のスポーツクラブにずっといても将来性はないとわかっていたんでしょうね。今の私から見ても、このおばあちゃんと同意見です。

そんなこんなで、高校卒業から22歳くらいまではアルバイトと正社員(とはいえ、まともなサラリーマンではなく)として、ちょっと特殊な仕事に就いていました。どこもそんなに長続きはせず、今振り返ってみても、ダメ人間な感じでしたね。

「不動産投資がしたい」知識を得るため、休日無しの不動産営業へ

そして、21歳の時に転機が訪れます。それは、ロバートキヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん』を読んだことです。でも、実際にその本に書かれていることを実行し始めたのは23歳なので、2年間も何も行動しなかったわけです。

今であれば、本に良いことが書いてあれば、読んだその日に実行することも珍しくありません。当時はいろいろな面でダメ人間でした。

それで23歳の時に何をしたのか?というと、不動産営業に転職をしたのです。これは金持ち父さんに書かれていた「職業はどんなスキルを得たいのか?で決めろ!」に従っての行動です。私は不動産投資がしたかったので、不動産のスキルも得られるし、お給料ももらえて、こんな最高な職場はない!という感じで転職しました。

ロバートキヨサキ自身も、ゼロックスという会社に就職して、営業のスキルを上げたということを書いていました。そして、ロバートキヨサキが「営業のスキルは大事だ」と言っていますし、不動産知識プラス営業の知識も得られるというわけで、こんな最高な職業はない!と確信を得て不動産営業になったわけです。

しかし、意気込んで不動産営業に転職したわけですが、これが凄かったですね…いろんな意味で…(笑)。

というのも、頑張っても頑張ってもなかなか成果が上がりませんし、会社自体もいつもピリピリしています。「注文住宅を受注して建築をする」ということが会社の主要な業務なのですが、そこまで集客力もなかったですし、お客さんに提案する営業力もなかったと思います。そのため、会社としては簡単に売れるように、土地を仕入れて建物を建てて売るというスタイルをとっていました。

この方法は、仕入れた土地価格や条件が良ければバンバン売り上げが立ちますが、仕入れに失敗すると一気に業績が悪くなります。また、多額の借り入れをして会社を回していたので、ちょっとでも販売のサイクルが止まると、一気に債務超過に陥ります。

ですので、社長をはじめとして、いつも上層部がピリピリしていたのです。私も営業が未経験だったので、とにかく自分でやれることを必死になってやりました

約2年間勤めましたが、その2年間でほぼ休みは取らず、とにかく売れる営業を目指して、毎日24時くらいまで残って仕事をしていました。まぁ、先輩の営業はもっと早く帰っていたので、自主的に残って仕事をしていた感じです。主に何をしていたのか?というと、会社が集客をしてくれないので、自分でチラシを作って、時間があったらそれを配りに行っていました。

2年間やってものすごい成績を上げたのか?というと、まぁ、普通に営業がわかってきて、これから売れそうだな…というところで辞めたので、ダントツの成績を残したわけではないです。

ただし、そこで学んだ集客の知識などは非常に良かったと今でも思うわけです。それは営業がうまくできていたら、もしかすると学ばなかったのかもしれません。

今だから思うのですが、もっと会社に集客力があり、もっとしっかりとしたお客さんが満足するシステムがあれば、その会社はもっと良くなったんだろうな…と思いますね。

売上が上がる仕組みを作るには、まずお客さんに来てもらわなければダメです。また、お客さんに来てもらっても、そのお客さんが感動するような仕事をしないと、売上は上がっていきません。

ディズニーランドにまた行きたいと思う人は多いと思いますが、それは大量のお客さんが来て、感動して帰っていくから。また来ようと思って、売上が上がっていくわけです。

ちなみに、その勤めていた会社は、私が辞めた後で倒産しています。また、不動産会社に2年間勤めて、なぜ辞めたのか?というと、あまりにも時間がなくて、不動産が買えなかったからです。

また、ちょっとずつ営業のコツがわかってきたのですが、私が本当にやりたかったのは、不動産を売ることではなく、自分が投資家として不動産を買うことです。

不動産を売る立場になってわかったことですが、不動産を売ることと、不動産を買うことは、全く違うスキルが必要だということですね。だから、ある程度コツをつかんだところで、「ああ、ここに居ても得るものがないな…」という感じで辞めたわけです。

ここまでで25歳になっていたわけですが、ここから、私が最後に勤めた工場勤務になります。

「こんな職場にいたらいつか死ぬ…」極限状態で見つけた成功の秘訣

次に転職先に選んだのが、工場勤務です。工場は茨城の水戸市にあって、ここが私が今までで最後にサラリーマンとして働いた職場になります。仕事は、冷房もなく暖房もないところで行なっていました。そのため暑さや寒さは過酷でしたが、いつも定時に終わって、土日・祝日は休みなので、あり余る時間ができました。住宅営業をやっていた2年間はほぼ休み無しで働いて、夜は24時を超えても普通に働いていたので、これはある意味、衝撃的でした(笑)。

ちなみに、住宅営業をしていた頃はとにかく知識が欲しくて本が読みたかったので、食事中やトイレ中はもちろん、車移動が多かったので赤信号の停車時もとにかく本を読んでいました。それが、工場勤務になって時間があり余っていたので、どんどん本を読む時間を増えました。今までは不動産業者に勤めていたわけですが、自分が投資物件を買った経験がないので、この頃は不動産投資の本を片っ端から読んでいました。

そんな感じで働いていた工場勤務ですが、ある時、衝撃的な出来事があったのです。それはリーマンショックが起こった時で、ヒマだったので職場の先輩とキャッチボールをして遊んでいました。すると、仕事をしていた上司が突然キレて、私はボコボコに殴られたんですね。キャッチボールをしていた私にも落ち度はありますが、「ああ、こんな職場にいたらいつか死ぬ…」と本気で思ったわけです。

実はその頃、結婚をして子供もいたので、収入が途絶えたら大変なことになります。ただ、実はその殴られる時までにちょっとだけ不動産を買っていて、さらに不動産を買い進めるという決意が堅くなった出来事でした。そして、早くこんな会社は辞めようと、そう思わされた出来事ですね。

それからは、まぁ、不動産は買ったんですが、業者に騙されたり、お金をだまし取られたり、失敗もたくさんしました。そして、なんとか不動産投資とネットビジネスの収入が上がり、29歳の誕生日まであと少しのところで、無事にサラリーマンをリタイヤしたわけです。

詳しい不動産を買った話などは、私のブログの過去記事に書いてありますので、興味がある人は見てみてください。

そんな感じで、高校卒業時からサラリーマンを辞めて独立するまでを振り返ってみました。ここまででもいろいろあって、辛かったこともありましたが、楽しい時期でもありました。

今、私は36歳で、独立して7年以上が経ち、会社は8期目ということで、その8年間もいろいろなことがありました。そして、ここまで振り返ってみて本当に大切だと思うことは、「チャレンジしてよかった」ということです。

チャレンジしなかったら、もしかすると、今もまだ上司が平気で人を殴るような職場に居続けたかもしれません。しかも、職場の悪口をいつも言っているようなそんなサラリーマンだったでしょう。

だから、そんな私から言えることは、「文句を言ってるヒマがあるならチャレンジしてみよう」ということです。文句を言うことは誰でもできますが、勇気を持って何かにチャレンジするのは、実は少数なわけです。だからこそ今の私はいるのだと、そう思っています。

チャレンジすることは、不動産投資でも他のビジネスでも、それは何でも良いと思います。とにかくやること。これが何よりも大事ですね。

金も無し、年収も低い、卒業した学校は県で1~2を争う学力が低い高校という条件の私でも、ここまでやってこれたわけです。もっと条件がよく優秀な人なら、もっと成功できますね。

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水戸市のサラリーマン大家さん

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総発行部数15万部。購読者日本一の不動産メルマガ。2017年5月現在8900人以上の投資家さんとお会いしてきました。年間取引額300億円以上、累計取引額1000億以上の不動産会社社長が、不動産投資について真剣に書いています。今ならメルマガ内で10万円相当の「不動産投資大百科」を無料配布中。メルマガ登録で非公開の物件情報も入ってきます。不動産仲介業宅地建物取引業免許国土交通大臣(1)第8944号

峯島 忠昭(みねしま ただあき)
1980年茨城県生まれ。株式会社水戸大家さん代表。株式会社MTK代表。不動産仲介業全般。宅地建物取引主任者。サラリーマン時代の2005年より茨城県水戸市を中心に不動産投資を開始し、わずか4年で家賃年収1700万の資産を築く。その結果、28歳の若さでサラリーマンを引退しセミリタイアを果たした。2011年の東日本大震災をきっかけに、水戸市を離れ不動産業に専念。六本木交差点に本社をかまえ、年商13億円、25人の社員を抱える実力派経営者となる。相談者への融資サポート額は累計1000億円以上、不動産取扱額は累計300億円以上。現在は、TV番組、ビジネス雑誌インタビュー、無料メルマガ『水戸市のサラリーマン大家さん』(14万部※本書出版時)など多くのメディアで日々良質な不動産情報を提供している。さらにほぼ毎週日本全国を訪問し、サラリーマンや不動産投資家へセミナーや面談を(述べ人数2万人※本書出版時)を行っている。著書に『改訂新版“水戸大家式”本当にお金を稼げる不動産投資術』『サラリーマン大家さん“1棟目”の教科書』(共にごま書房新社)等、計7冊執筆。
・著者サイト『株式会社水戸大家さん

水戸市のサラリーマン大家さん』(2017/5/3, 5/4, 5/5, 5/6号)より一部抜粋
※見出し・太字はMONEY VOICE編集部による

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