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起承転結で学ぶ、日本経済のバブル崩壊から異次元緩和までの歴史=東条雅彦

【転】日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意」

1985年9月22日に米国のベイカー財務長官は、ニューヨークのプラザホテルに先進5ヵ国(日・米・英・独・仏=G5)の大蔵大臣(財務長官)と中央銀行総裁を召集しました。そこで、米国は他国を説得してドル高を是正する協調行動への合意(=プラザ合意)にこぎつけることに成功しました。参加各国が「ドルに対して自国通貨を一律10~12%幅で切り上げる」ことに合意して、為替市場で協調介入を行うことが決まったのです。

米国の狙いは明確でした。一言で言えば、日本の輸出競争力を弱めて、米国の輸出競争力を高めることにありました。

その結果、1ドル236円(1985年9月)だった為替レートが、1年後(1986年9月)には1ドル154円まで円高ドル安が進みました。たった1年で為替レートが約35%も動いたのです。日本の輸出業者がダメージを受けてしまい、円高不況を生み出します。

日本は今までのように輸出で儲けたお金を国内に還流するというモデルを継続させるのが、政治的に難しい状況になっていました。双子の赤字で苦しむ米国からの圧力は凄まじく、日本は経済構造の転換を迫られたのです。

1986年4月7日、中曽根内閣の私的諮問機関「経済構造調整研究会」が、日本の今後の経済政策をレポートにまとめました。この研究会の座長であった前川日銀総裁の名前を取って
前川レポート」と呼ばれています。この前川レポートの提言にそって、日本政府は経済政策を推し進めます。

レポートで謳われていた内容は、「内需拡大」と「産業構造の転換」でした。この2つは米国が元々、日本に要求していたこととなります。米国は自国の経済を守るために日本の輸出競争力を削ぎ落として、外需ではなく内需で経済が回るようにしてもらいたかったわけです。

日本は米国との貿易摩擦を解消するために、産業構造を「外需」から「内需」に転換することにしました。前川レポートには、「10年で430兆円の公共投資を中心した財政支出を拡大すること」が記されています(これは米国に要求されたので、そう書いたのです)。

当時、まさかこの内需拡大政策への転換が「バブルの発生と崩壊」を引き起こし、日本政府が借金漬けになるきっかけを作ることを、明確に予想できていたエコノミストはほとんどいなかったと思われます。

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