民主主義の終わりの始まり――「報ステ圧力問題」と日本のテレビメディア史

 

「波取り記者」と田中角栄のテレビ局支配

まずは日本の電波行政そのものが、スタートラインで狂っていたという、出自の不幸がある。戦前のラジオ(NHK)や大新聞が、大本営化して国民に正しい情報を知らせなかったために、日本は無謀な戦争を止めることができず、国が破滅した。その反省からGHQ(マッカーサー)は新聞に100%の言論の自由を与え、放送は政府から独立した行政機関が電波の許認可を行うことにした。

GHQ時代には電波管理法があり、これは米国の連邦通信委員会(FCC)がモデルだった。米国にFCCが出来たのは1930年代のことで、ヒトラーがラジオを巧みに操作して、ナチスの宣伝機関に利用したことに脅威を感じたためだ。米国政府は電波の管理権を政府から切り離し、電波の自由を守るためにFCCを創設した。

従ってFCCがうたう自由な放送の原点は、政府の圧力からの自由である。放送法でいう「偏向」とは、もともと「政府の側に偏る」ことを意味していた。GHQは日本にもこうしたFCCの法的な仕組みを導入した。しかし残念ながら、講和条約が発効し、日本が独立国家になったとき、政府は日本版FCCから電波許認可権を取り上げてしまい、郵政省(現・総務省)管轄に移した。

郵政省管轄の電波許認可権を最も有効に政治利用したのが、郵政大臣も歴任した田中角栄である。彼は大新聞社を支配するために、これを利用した。

日本のテレビ局はNHKを除けば、民間放送はだいたい新聞社系列になっている。朝日→テレ朝、読売→日テレ、毎日→TBS、産経→フジ、日経→テレ東といった具合。これに地方局の系列化がある。したがって大新聞社は、日本中に20~30の系列テレビ局を持っている勘定にあるといわれる。

このテレビ事業は、ジリ貧メディアに落ちた新聞にはおいしいサイドビジネスだった。金も入るが、それ以上に新聞本社の天下り人事の受け皿になったのだ。定年前の幹部社員を、地方局の社長、専務、役員クラスに送りこむ。

新聞にとって、新設テレビ局の系列を確保するのは「波取り記者」の役割だった。波取り記者は特に記事をかかなくてもいい。政治家や関係官庁をアチコチ歩きまわりながら、テレビ局新設情報を嗅ぎまわり、目当ての局を自社の系列局に落とし込む手際を発揮すれば、出世のチャンスも転がり込む。

そんなわけで、新聞社にぶらぶらして記事も書かない記者がいて、それでも出世している者がいたら、ハハア、奴は波取りだったのかと勘ぐることはできる。

そういう波取り記者をうまく手なずけて新聞支配をやったのが、当時の郵政大臣・田中角栄だった。田中の新聞支配は、ロッキード事件で失脚するまで続くことになった。

大新聞マスコミはこの田中角栄の問題を、立花隆が『田中角栄研究』を文芸春秋に書くまで、書くことはなかった。

日本が原発をアメリカから導入するときに、CIAと日本テレビの関与があったことは、有馬哲夫氏の著作でも知られるが、日本のテレビ草創期にはこうしたダークな裏話が出て来るのも、事実なのである。

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