京都を1200年守り続ける4匹の動物と、清水寺の片隅にある悲しい物語

 

修学院離宮からほど近い赤山禅院は、888年に京都御所の鬼門を守るために最澄の弟子・円仁(えんにん)の遺命によって安慧(あんね)が建てた比叡山延暦寺の別院です。ここは私が毎年1月に「都七福神めぐり」で訪れる馴染みのある場所です。赤山禅院には本尊・赤山明神の他に七福神の1人「福禄寿」が祀られています。赤山禅院に安置されている猿の彫刻は、本殿の屋根の上に置かれています。

京の都は、比叡山の守護神・日吉大社の神獣である猿を合わせると、現在も4匹の猿によってしっかり固められていて、万全のセキュリティーシステムで守られています。

ちなみに、裏鬼門を守っている古社は、桓武天皇の皇后乙牟漏(おとむろ)の発願によって造営された洛西の古社で奈良の春日大社を勧請(かんじょう)した大原野神社です。

後世、御所から見て鬼門の方角には京大のそばにある吉田神社や、裏鬼門の方角に江戸末期新撰組の屯所となった壬生寺なども建てられました。これら鬼門、裏鬼門に位置する寺社仏閣は鬼門封じが創建の目的なので、毎年節分には追儺式(おにやらい)や鬼法楽(おにほうらく)=(節分祭)が行われ、大勢の参拝客が出て大変な賑わいを見せます。

このように、節分の日に鬼門封じの行事を京都の鬼門と裏鬼門で同時に行うことによって、邪鬼の侵入を防ぎセキュリティー体制をより強化しているのです。国家繁栄、国民安寧のために桓武天皇が政治生命をかけて取り組んだのが鬼門封じで、当時最重要としていた仕事が比叡山延暦寺の建立だったのです。

さらに桓武天皇はより国家的な規模で鬼門封じをしました。それは、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の東北遠征でした。征夷大将軍の「征夷」は東北地方の先住民である蝦夷えみしを征服するという意味です。そのため、明治時代直前まで続く幕府の将軍職の本来の役目は鬼門封じだったということです(本来の役目自体は時代とともに薄れていきましたが)。

田村麻呂は初代の征夷大将軍です。田村麻呂は東北遠征で30ヶ所以上の寺院や神社を建立し、本州の鬼門に潜む鬼を征服し鬼門封じをしました。当時東北地方に住んでいた何の罪もない蝦夷の人達がとても気の毒です。本州の東北の端にある津軽地方は、京の都にとって鬼門中の鬼門だったので、この地には特別に7つの神社を建立し、それらを広範囲に渡って北斗七星形に配置して全ての神社に宝剣を埋めたそうです。

かつて中国では北方信仰があり、北斗七星を用いて悪霊を退散し鎮魂をする方法がとられていたそうです。田村麻呂は、それにならってこれら7社の神社を建立したといいます。東北遠征から戻ると、田村麻呂は都に戦場で亡くなった死者の鎮魂のためにお寺を建てます。

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