台湾で最も尊敬される日本人。命がけで東洋一のダムを作った男がいた

 

農作物の増産

祝賀会の終わった5月15日、烏山頭ダムからの給水が始まった。八田の合図でバルブが開けられると、直径1.8メートルの放水口6本から、ゴーというすさまじい音を立てて、水が流れ出していく。そして精密な測量に基づいて、勾配1%とほとんど水平にしか見えない水路でも設計通り水が流れていった。しかし15万ヘクタールの土地にはりめぐらされた全長1万6,000キロメートルの水路に給水する水利運用が軌道に乗るまでには3年かかった。

また100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づく米作りは初めてである。東京農業大学出身の中島力男技師が農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方を指導した。

計画した農作物の増収が実現するには、ダム完成後6年かかった。しかし、水稲作は工事前の収穫高10万7,000石が65万7,000石と6倍に、甘藷作は138万石から288万石と2倍に伸びた。地元農民の増収金額は年間2,000万円以上に達し、彼らが負担した事業費2,739万円の返済も容易であったろう。なお総督府の補助金は2,674万円に上った。

八田夫妻の最期

烏山頭ダムの完成後、八田は台北に戻った。昭和14(1939)年には、技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられた。台湾がさらに発展していくためには、現地人技術者の養成が不可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土木測量技術員養成所」を台北市内に作った。この学校は年々発展して、現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの技術者を社会に送り出している。

大東亜戦争2年目の昭和17年5月、八田は南方開発派遣要員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向かった。灌漑の専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地を調査する任務だった。

5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、米潜水艦の雷撃を受け沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月13日、はるか離れた山口県萩市沖合の見島で発見された。7月16日、総督府葬をもって荼毘に付された。享年56

昭和20年、台北でも空襲がひどくなると、妻の外代樹は子供たちと烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開した。10年ぶりの懐かしい土地である。敗戦後2週間ほどした9月1日未明、外代樹は黒の喪服に白足袋という出で立ちで、烏山頭ダムの放水口に身を投げた。「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が机の上に残されていた。享年45

「偉いおじさん。台湾人の恩人」

嘉南の農民たちは、1946年12月、わざわざ日本の黒御影石を探し出して、日本式の墓を八田夫妻のために建てた。以後、毎年八田與一の命日5月8日に嘉南農田水利会の主催により、墓前での慰霊追悼式が催されている。

昭和6年に工事関係者が贈った八田の銅像も、戦争末期の金属類供出が呼びかけられた頃、忽然と姿を消していたが、戦後、地元民が隠して保管していたのが見つかった。蒋介石政権のもとで、日本人の銅像を隠し持っていることは大変な危険であったが、銅像はそのまま保存され、昭和56年に墓前に設置された。

「百年ダムを造った男」の著者・斉藤氏は1996年、50回目の慰霊祭に参加した際に、近くの官田小学校にも取材に訪れた。ダムの工事中に作られ、八田の子供たちも通った六甲尋常高等小学校がこの官田小学校の前身であった。

教師の話によれば、生徒に烏山頭ダムと八田のことを教えているという。通訳を通じて、人なつこい子供たちに聞いてみると、ほとんどの子供たちが八田のことを知っており、「偉いおじさん台湾人の恩人」と答えた。若い教師はこう言った。

「日本人にあまり知られていない八田技師に関心を持つのは大変よいことだと思います。それと、八田技師は政治とはなんの関係もない日本人で、台湾人のためにあれだけのダムを造った人物です。日本人はもっと関心を持つべきですね」。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
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