MAG2 NEWS MENU

離宮に秘められた謎。京都の人に「徳川家」が嫌われている理由

京都に同時期に建てられた「修学院離宮」と「桂離宮」。当時、陰陽師という職業があったことからも分かるように、重要な建物は風水的に良い土地に作られるのが常識だったのですが、この2つの離宮はそれぞれ「鬼門」「裏鬼門」に位置しています。いったいなぜ? 無料メルマガ『おもしろい京都案内』がその謎に迫ります。

修学院離宮と桂離宮 その造営の謎

以前このメルマガで京都の鬼門封じの話をしました。京の都は1,200年前から3匹の猿(の彫刻)によって頑丈に守られているというものです。詳しくは下記(メルマガ「おもしろい京都案内」第4号)をご覧ください。

京都を1200年守り続ける4匹の動物と、清水寺の片隅にある悲しい物語

今回はなぜ皇室の重要な建物である修学院離宮が鬼門の方角に、そして桂離宮離宮が裏鬼門の方角に建てられたのかというを解きます。そして同時期に造営された2つの離宮を比較してみようと思います。

まず、京都御所と比叡山を結ぶ北東の線上に位置する修学院離宮についてみていこうと思います。古来中国の風水によると鬼門は北東の方角と決まっています。いわゆる鬼が入ってくる入口となる方角です。

修学院離宮は京都御所の北東の地(鬼門)に上段・中段・下段と独立した3つの茶室によって構成された広大な別業(べつごう)の地です。別業の地というのは別荘です。

古来から鬼門の方角に好き好んで建物を建てる人などいません。まして皇室の離宮がそのような方角に造営されることなど考えられません。

昔は鬼門(北東)や裏鬼門(南西)の方角に出かける時は、方除け(ほうよけ)をしていました。一度鬼門ではない方角に進んでからそれぞれの方角に向かうというのが慣わしだったのです。方除けとは鬼門など凶の方角に行く時は凶の作用を防ぐためのお祓いをすることです。そのぐらい凶の方角は忌み嫌われていたのです。

さて、現在修学院離宮がある場所はかつて円照寺(えんしょうじ)というお寺が建ってました。このお寺は、江戸初期、徳川家康から三代将軍家光の頃の天皇、後水尾(ごみずのお)上皇とお世津(せつ)との間に生まれた第一皇女・梅宮(うめのみや)が、二代将軍徳川秀忠の娘・和子(まさこ)入内(じゅだい)により邪魔になり出家して、幕府から与えられていた寺でした。

後水尾上皇は、公家諸法度(くげしょはっと)や禁中並公家諸法度(ぶけしょはっと)などの法令によって、天皇の権威を幕府に奪われ、文芸の世界に追いやられていました。そして、すでにお世津という女性との間に子供がいたにも関わらず、幕府は徳川の血を皇族に入れるため、徳川家の祖・家康の孫娘である和子(二代将軍秀忠の娘)をわずか6歳で後水尾上皇の正室として押しつけたのです。その結果「邪魔者」となった梅宮が出家して仕方なく住んでいたのが円照寺でした(円照寺は現在奈良県にあります)。しかし、今度は後水尾上皇が離宮を造る際、幕府が与えた土地は残酷にも円照寺から梅宮を立ち退かせて用意した場所でした。

また、後水尾上皇が高僧に与えた紫衣(しえ)を無効にし、上皇が勝手にそのような権限を行使したことを理由に島流しにした後、31歳とまだ若かったにも関わらず隠御所・仙洞御所を造られ引退を促されたのです。紫衣とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)で、高徳の僧や尼が朝廷から賜るものです。僧や尼の尊さを表す大変名誉ある勲章のような物だったと同時に、朝廷にとっては貴重な収入源の1つでした。

徳川家は今でも京都ではあまり良く思われていないようです。おそらく京都人はこのような幕府の横柄な態度を良く思わなかったからでしょう。徳川家康は、神泉苑という御所の禁裏の神苑も取り上げ、著しく敷地を縮小し、その池を自分達の京都の居城・二条城のお堀に当てたりしていることなども許せないことだったのだと思います。

さて、修学院離宮は1652年から1659年までの間15年も構想に時間をかけて造営されました。下と中の茶屋は比較的小規模で、上の茶屋は「浴龍池」と呼ばれる巨大な池を中心とした池泉回遊式庭園となっています。数か所に茶亭などが配されていて、灯籠や飛び石などと共にしつらえが施されています。

修学院離宮も桂離宮も両方とも皇室内の近い親戚同士によって造られたにも関わらず、一方は雄大、他方は繊細と造形上の大きな対比があります。

修学院離宮の雄大さは特に上中下3つのお茶屋をつなぐあぜ道に象徴されます。そのあぜ道を歩いていると、見渡す限り田んぼの風景で、遠方には比叡山、北山、東山が見渡すことができ、その場所が邸宅内だと思えない広さなのです。上の茶屋の巨大な池、「浴龍池」なども大きな龍が背骨を水面から出して水浴びしているように見えるため名付けられたと雄大そのものです。

幕府からしいたげられていたにも関わらず後水尾上皇自身、雄大な人物だったことは子供の数から見て取れます。男15人、女17人、計32人の実子があり、大病もせず51年も上皇天皇の上の位として院政を仕切ったといいます。明正、後光明、後西、霊元と4人の子が天皇になるのを上皇という立場で見届け、昭和天皇に次ぐ85歳の長寿を全うしたのです。修学院離宮の雄大さは後水尾上皇の重厚長大な人生を生き抜いたことに由来しているのかもしれません。

一方、桂離宮は八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王(夫人は、キリシタン大名の娘)、智忠(としただ)親王(弟は曼殊院を創建した良尚法親王)父子によって創建されました。

智仁親王は、後陽成天皇の弟で兄から皇位を譲られるはずだったのですが、子がなかったので、一時豊臣秀吉の養子になっていた人物です。そのため、天皇になることを推薦された際、豊臣家を滅亡させた徳川幕府に推薦を取り消され、しいたげられました。智仁親王は、修学院離宮を造営した後水尾上皇の叔父さんに当たります(後水尾上皇は後陽成天皇の子です)。

智仁親王の夫人はキリシタン大名の娘だったので、兄・後陽成天皇に宣教師を紹介したりしていたようです。それがきっかけで、桂離宮には西欧手法が大量に用いられています。

桂離宮の創建当初からの建物である古書院は、月の名所として知られています。月桂の故事から名付けられた桂の土地柄月見台が設けられ、中秋の名月の月の出の方位に向けて建てられているとても風流な建築様式です。このような風流を主とした造りが特徴の茶室などの建物が庭園の苑路で結ばれていて、一周することで庭全体が鑑賞出来る回遊式庭園になっています。

建築では先細りの空間を造り遠近感を強調するパースペクティブの技法が使われていたり、極端に細長い空間を造り遠近感を強調するヴィスタの技法、人間にとって最も美しいと感じるバランス関係である黄金比率などを至る所に取り入れています。このような技法は同時代西洋で流行った技法で宣教師達によって伝えられたものだと考えられています(ザビエルが鉄砲を伝えた1582年から鎖国が始まる1639年までの間著しく西洋のものが取り入れられていた時代背景があります)。

その他も、ソテツの植栽、青と白のチェック模様の襖、ビロードの腰張り、キリシタン灯籠、十字型の手水鉢など西欧文化の影響と思われるもので満ち溢れています。

地図で見るとよく分かりますが、桂離宮は御所から見て西南の裏鬼門に造営されています。幕府からしいたげられた後水尾上皇と智仁親王の2人の皇族はくしくも鬼門と裏鬼門に離宮を造営させられているのです。

後水尾上皇は僧の最高の位である紫衣(しえ)を与える権限を奪われ、疎まれることになりました。智仁親王は、かつて秀吉の養子となった過去があるということで、徳川家から疎まれました。そのような人物たちは早めに朝廷の中枢から引きずり降ろしておこうとした徳川家の思惑が修学院離宮と桂離宮の造営に深く関わっていたことが伺えます。

いかがでしたか?

もちろん歴史ですので諸説あり、全てが正しいとか間違っているということはないのでしょう。ただ、このようなことを知りながら京都を訪れることは何も知らないで行くよりもはるかに楽しいものです。知識は何の変哲も無い日常生活に彩りを与え人生をより豊かで実りあるものにしてくれます。京都の魅力に興味を持ち、日本そのものを深く知ることで自分を見つめ直し、親や祖先を敬い、母国に感謝する気持ちが深まるきっかけになれば幸いです。

image by: Shutterstock

 

おもしろい京都案内
毎年5,000万人以上の観光客が訪れる京都の魅力を紹介。特にガイドブックには載っていない京都の意外な素顔、魅力を発信しています。京都検定合格を目指している方、京都ファン必見! 京都人も知らない京都の魅力を沢山お伝えしていきます。
<<登録はこちら>>

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け