真田一族の夢の跡。40枚の写真で綴る隠れた名城・上田城の物語

 

東虎口櫓門と南櫓

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虎口とは城の通路の出口という意味。南北の櫓とともに平成6年に復元されました。写真は内側から撮影したもの。上田城の顔となっている場所です。

 

東虎口

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虎口とは城の通路の出口という意味。現在の上田城の顔になっている建物群です。両端にある二棟の二重櫓(南櫓・北櫓)は、移築復元されていましたが、平成6年(1994)に城門も復元されました。

 

東虎口櫓門

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平成6年(1994)2月に復元された櫓門。西側にも同様の櫓門があったようですが、そちらは跡地になっています。ただ、西側は遺構を確認すると内桝形があったように思います。一方、こちら東虎口は桝形はなさそうです。

 

南櫓

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東櫓門と棟続きの南櫓。尼ヶ淵から見上げると見えていた櫓です。尼ヶ淵からは断崖の上に建っているように見えます。

 

北櫓

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北櫓。二層二階、桁行五間、梁間四間。入母屋造本瓦葺。外観は白漆喰塗込大壁の下見板張り。白漆喰に下見板張りといえば松本城を思い出します。同じ長野県にあるということで共通するものを感じます。西櫓、南櫓と構造は全く同じで、いずれも長野県宝に指定されています。

 

妓楼となった城櫓

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城内の展示によると、実は上田城の南櫓と北櫓は、明治維新後の明治11年(1878)に上田市街の上田遊郭に移築され、金秋楼と万豊楼という娼妓屋として使用されていた時期があったとのことです。写真はその当時のもの。

 

二の丸堀跡1

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ここは上田城の二の丸の堀跡。現在は遊歩道となっており、「けやき並木遊歩道」と名付けられています。昭和3年(1928)には上田温電北東線が開通し、この場所を電車が通っていました

 

二の丸堀跡2

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上には城内に通じる橋があります。ここにかつて電車が通っていた名残を感じることのできる場所のひとつといえそうです。このような遊歩道になったのは昭和47年(1972)に電車が廃止されてからのこと。このように堀跡が道路や鉄道として利用されている例は全国にあります。

 

北東隅の切り欠き

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上田城の本丸を特徴付ける北東隅の切り欠き。これは鬼門となる北東に角を設けないための工夫です。風水思想の影響を感じるつくりですが、このような例も全国で見られます。

 

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