この金は、心して渡せ。昭和の名総理・田中角栄に学ぶ人心掌握術

image by:首相官邸ホームページ
 

悍馬を乗りこなす角栄

そもそも、田中角栄と早坂茂三の関係が興味深い。これほど濃密で、かつ、清々しい政治家と秘書との関係は類例を見ないのではないだろうか。こういう秘書を抱えていたという一事を以ても田中角栄の魅力が伝わってくる

早坂茂三が田中角栄の秘書に就任するのは、田中角栄が大蔵大臣を務めていたときだ。早坂は『東京タイムズ』という小さな新聞社に努める新聞記者だった。当時、『東京タイムズ』の名前は殆ど知られていなかった。早坂が記者として自己紹介すると、必ず会社の名前を何度も確認され、肝心の要件を聞き出すまでにお互いにくたびれてしまうほど、小さな無名の新聞社だった。

早稲田大学政経学部出身の早坂が、こうした小さな新聞社に就職したのには理由がある。彼は大学時代、共産党の過激な活動家として学生運動にのめりこんでいたのだ。

軍国少年だった早坂少年の夢を打ち砕いたのは、日本の敗戦だった。価値観が転倒した。昨日まで天皇陛下の為に死ぬことが国民の責務だと熱弁をふるっていた教師たちが、一夜にして転向した。これからは民主主義の時代だと熱弁をふるったのだ。早坂少年は大人たちに不信の念を抱く。

早稲田大学に入ると、早速民主主義科学者協会に入る。学生をオルグしていると先輩に呼び出され、共産党に入党。以後、共産党の活動家として、米軍の撤退、吉田内閣の打倒を目指して、学生運動に汗を流す。だが、多くの国民は日々の生活に忙しく、学生弁士の熱弁に心動かされることはなかった。早坂が共産党を離党するのは、母からの手紙による。「私はお前を信じています」の言葉にほだされ、共産党を離党する。だが、彼は共産主義思想を否定したわけではない。党を離れただけだ。

学生運動にのめり込んだ人間を採用してくれる大手の新聞社はなかった。『読売新聞』の就職試験では、面接の当日に彼の下宿屋に読売新聞の社員が押し掛けた。面接に出かけている早坂が帰る前に、部屋を調べていたのだ。当時、早坂は日本共産党の軍事闘争方針の記された『球根栽培法』を所持していた。この共産党の極秘文書の所持が、『読売新聞』にばれてしまうのだ。案の定。読売新聞からは、不合格の速達が届くことになる。

学生運動にのめりこんだ早坂を拾ってくれたのが、『東京タイムズ』の社長、岡村二一だった。

共産党員として学生運動にのめりこんでいた新聞記者を秘書官にしようというのだから、この一点を以ても田中角栄の度量の大きさというものが理解出来よう。確かに、角栄が見抜いたように早坂は有能な秘書となった。昭和38年12月2日。角栄は早坂を大蔵大臣室に呼び出して、口説き始めた。

「オレは十年後に天下を盗る。お互いに一生は一回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマもない。オレは越後の貧乏な馬喰の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部、読んだ。それは構わない。オレは君を使いこなせる。どうだ。天下を盗ろうじゃないか。一生に一度の大博打だが、負けて、もともとだ。首まではとられない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三『鈍牛にも角がある』光文社、105~106頁)

角栄は、早坂が共産党にかぶれたことを知らなかったのではない。そうしたことは全て調査済みである。だが、それでも早坂を使いたいというのが角栄なのだ。しかも、口説き文句が、「天下盗り」である。角栄一流の口説き方といってよいだろう。結局、早坂は『東京タイムズ』を退社し、角栄と共に天下盗りを目指すことになる。32歳のこの日から、角栄が倒れ、田中ファミリーに解雇される55歳まで、早坂は角栄を支え続けることになる。

学生時代に共産党に入党し、活動していた早坂が癖のある人物であったのは間違いないだろう。後年、早坂が飛行機に搭乗した際には、有名な事件を起こしている。離陸の際に、早坂がリクライニングを倒したままにしていると、早坂は添乗員からリクライニングを直すように注意を受けた。激怒した早坂と添乗員との間で口論が生じ、飛行機の出発が42分も遅れることになった。短気は損気。分かっていても一言言わずにいられない早坂の性分が滲み出たエピソードである。これだけ癖のある人物が惚れ込み、一途に仕え続けたたのが田中角栄なのである。

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