削除された「天皇制容認」条項
日本側が受諾可能な降伏条件として、天皇制の存続を認めることが不可欠だという点は、米政府内の一致した見解であった。また国内外に残る数百万の日本軍に降伏を受け入れさせるためにも、天皇の命令が必要だと米軍トップは認識していた。
このような主張をもとに、米国務省、陸軍、海軍三省の合同委員会によってまとめられたポツダムでの声明案第12項には、次のように、天皇制の存続を認める一節が含まれていた。
これらの目的が達成され、日本国民の総意を代表する平和志向で責任ある政府が疑いの余地なく樹立されるのと同時に、連合国の占領軍部隊は日本から引き揚げる。
そのような政府が将来の日本において侵略的な軍国主義の台頭を許さないという決意で平和の政策を実施すると、平和を愛好する国々(連合国)が確信をもてれば、現在の皇室の下で立憲君主制ということもありうる。
しかし、7月26日に発せられたポツダム宣言では、この後半部分がトルーマン大統領とバーンズ国務長官により削除された。
日本政府はそのために、ポツダム宣言をいったんは「黙殺」したが、8月6、9日の広島、長崎への原爆攻撃、および、8日のソ連の宣戦布告の後の10日、「国家統治の天皇の大権にいかなる変更も加えるものではないという了解のもとに」受諾した。翌11日、連合国側から日本の降伏を受け入れる回答がなされた。
日本側の条件は、まさにポツダム宣言から削除されていた天皇制容認条項と合致している。トルーマンはこの条項を一旦削除した上で、日本側から要求されると、すぐに了承したのである。
マッカーサーは「アメリカが後に実際にそうしたように、天皇制の維持に同意していれば、戦争は何週間も早く終わっていたかもしれなかった」と述べている。
冷戦の最初の犠牲者
となると、問題なのは、なぜトルーマンが一時、ポツダム宣言から天皇制容認の条項を削除したかである。大統領の7月25日の日誌にはこうある。
われわれはジャップに降伏して命を救うように要請する警告の声明を発表する。だが、やつらは降伏しないであろう。
トルーマンは日本が受諾しないだろうと知りつつ、ポツダム宣言から天皇制容認条項を削除し、戦争を長引かせるような措置を意図的にとった事になる。
そして、同じくこの25日早朝には、ポツダムからワシントンの国防総省に、「8月3日以降なるべくすみやかに原爆を落とせ」という命令が届けらた。原爆投下はポツダム宣言発表の前日に、すでに命令されていたのである。
トルーマンの意図について、歴史家のハーバート・ファイスはこう述べている。
原爆の威力を実際の戦闘で実証すれば、ソ連と対立していた問題の解決でアメリカ政府の威信を効果的に増大できるだろうと考えられていたことは大いにありうる。
そして、彼らは誇示する力が強力であることを望み、また、それは原爆の威力がおびただしい数の死傷者によって示されて初めて可能だと考えられたと、さらに推論することができる。
トルーマンは、ソ連を威圧し、極東での発言権を封じるために、原爆の威力を実戦で見せつけ、原爆が「ソ連参戦でなく」日本を降伏に追い込んだという形を狙った。そのためには、原爆投下前の日本降伏は避けねばならず、ポツダム宣言を日本がすぐには受諾できないように改変した。これが、『原爆投下決断の内幕』の著者アルペロピッツが唯一成り立ち得る仮説として述べているものである。
原爆投下は第2次大戦最後の軍事行動というより、ロシアとの外交上の冷戦における最初の主要な作戦だった。
(イギリスのノーベル賞物理学者P・M・S・ブラケット)
とするならば、広島の20万人以上、長崎の7万人以上の死者は、米ソ冷戦の最初の犠牲者だったということになる。黙祷。
文責:伊勢雅臣
image by: Francesco Dazzi / Shutterstock.com
『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
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