誰の墓なのか不明な古墳を「天皇陵」に指定する、宮内庁の石頭ぶり

 

古墳は、ご存知のように盛り土をし、小山のようになった墓を指します。3世紀頃作られ始め、約400年間に渡り作られ続けました。全国に40万基とも、80万基とも言われる数の古墳があると言われています。
出現の仕方から、特殊な一族が北九州や奈良の纒向地方に移り住み、そこで始めた墓の作り方が、稲作集団の長のための墓の作り方として広まるとともに、ヤマト政権の拡大とともにその形が模倣され広まったと考えられます。
では、なぜ、そのような墓を作ることになったのでしょうか。私は、当時の日本人が持っていた死生観というものに大きく関わっていると考えています。では、古代の人々はどのような死生観を持っていたのでしょうか。

魏志倭人伝には、「喪主は泣き叫び、他人は歌舞・飲酒する」と書かれています。私は、この表現にどうしても天の岩戸の神話の光景が重なるのです。天照大御神を隠れた岩屋から呼び出す光景です。そこには、現実の世界に呼び戻そうとする意図があるのではないかと思うのです。これは、現代の通夜にもつながるものと思います。通夜とは、夜通し泣き叫び、もしくは、歌舞飲酒することから付けられた名称だと思います。

実際、古代においては仮死状態にあった人間が蘇るということがあったのかもしれません。死の定義も、現代とは大きく違っていたでしょうから、呼び起こすという行為が行われていたのかもしれません。

また、「埋葬が終わると、一家をあげて水中に詣り、体を洗い、練沐のようにする」とも記載されています。つまり、「禊(みそぎ)」をした記録が残されているわけです。やはり、死者には「穢れ」があると思われていたのだと考えます。穢れを落とさないと、自分も同様に死に至ると考えたのかもしれません。伝染病を伝染病だと認識できなければ、死者の穢れが病気にすると考えたのも理解できるのです。

これらは、邪馬台国の時代の日本の記述です。ちょうど、古墳が作られ始めた頃の日本なのです。呼び起し続け、もう戻ってこないという確認は、肉体の腐敗により断定したのかもしれません。だとするなら、その後は穢れを閉じ込める必要があったのだと思います。伝染病を予防するには、隔離するしかありません。死者を焼くという習慣がなかったとするなら、死体を遠くに離して埋葬するしかないわけです。それが小山を作る行為に結びついたのではないかとも思うのです。

その後、死者への扱いはどのように変わったのでしょうか。魏志倭人伝に比べ、あまり知られていないのですが、「隋書倭国伝」にも当時の日本の風習が記載されています。そこには、「殯(もがり)」が実施されたと書かれています。もがりとは、死者の遺体を直ぐには埋葬せずに、しばらくの間安置しておくことを言います。しばらくと言っても、「貴人は3年」と記載されています。3年もの間、埋葬せずに部屋に放置したのです。

放置したという言い方は、正しくないかもしれません。遊部と呼ばれた死体を処理する職業人達が存在していたのです。
それでも、3年もの間放置すると、遺体は腐敗を通り越し、白骨化していると考えられます。つまり、もう二度と復活できないと確信が持てるまで、放置されていたことになります。ただ、その確認だけのためだとするなら長すぎます。やはり、その期間を利用して大きな墓である古墳を築造したのだと思います。その頃は、大きさが生前の権威の大きさを表すようになっていたからです。
日本書紀によると、ちょうど隋書倭国伝に記された頃の日本の天皇であった、敏達天皇の殯(もがり)は、5年8ヶ月もの期間であったと記載されています。その期間に、大きな古墳を築いたのではないかと言われていますが、それだけではないようです。

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