フィリピン独立の影に日本あり。今も語り継がれる涙の友好物語

 

台湾などに比べると、まだ馴染みの薄い国、フィリピン。しかし両国の歴史を探っていくと、共に戦い、助け合った深い「絆」のエピソードがいくつも見つかります。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、その中でも特に印象深い「日比友好」4つの物語が紹介されています。

独立を求めるフィリピン人と、それに共鳴する日本人の間に、幾多の友情の物語が生まれた

マニラ空港から外に出ると、夏のような強い陽光と暑い空気、そして群衆と車の喧噪が押し寄せてきた。うっかり日本の冬支度で来てしまった私は、コートとマフラーと上着を抱えたワイシャツ姿というなんとも場違いな恰好である。

迎えの車が混雑したマニラの町を走り出すと、独立の英雄ホセリサールの肖像を描いたポスターを見つけた。運転手にリサールの事を聞くと、今も独立の英雄として尊敬されており、またリサールの日本での恋人おせいさん」の事も知っていた。

1時間ほど北上して、マニラの郊外に出ると、美しい広大な水田が広がっていた。所々に広がる木立は熱帯らしい椰子や棕櫚(しゅろ)は目立たず、むしろ温帯の森林に近い感じである。遠くの山並みと水田と木立という風景は、九州や台湾を思わせる。確かに地理的に考えれば、日本列島から台湾、フィリピンと、アジア大陸の太平洋側を囲む島々として一続きになっている。

フィリピンは我々の意識の中では遠い国だが、東南アジア諸国の中では地理的に日本にもっとも近く、それだけに歴史の中では多くの絆があったホセリサールとおせいさんの物語もそのひとつである。

リサールとおせいさん

ホセ・リサールは1888(明治21)年2月29日、ヨーロッパに向かう亡命の旅の途中、日本に立ち寄った。リサールはその前年、マドリード大学で医学を学ぶかたわら、スペインとカトリック教会を批判した小説をヨーロッパで発表し、スペイン政府から反逆の書として激しく非難された。フィリピンに帰ったリサールを待っていたのは、小説の発禁と国外追放の命令だった。

日本にはごく短期間、逗留する予定だったが、2、3日ですっかり日本の魅力に取りつかれ、出発を先延ばしする。そこに出会ったのが「おせいさん臼井勢似子である。維新で没落したとはいえ、江戸旗本の武家育ちで、つつましく、編み物と絵画を得意とし、英語とフランス語を学んでいた。

22カ国語に精通していたという語学の天才・リサールは、たちまち日本語を覚え、彼女に早春の東京や日光、箱根などを案内して貰ったりした。「日本人は温順平和勤勉で将来ある国民である」「日本とフィリピンとは緊密な交渉を持たねばならないだろう」などと、本国の家族や友人への手紙や日記に書き残している。

また歌舞伎で見た忠臣蔵には感動を覚えた。身を捨てても、主君のために尽くす浪士たちの行動に、わが身をおきかえて共感したのであろう。またおせいさんの方も、兄が彰義隊に加わり、上野で戦死しているだけに、独立の志士として不遇な状況にあるリサールに深い同情の念を抱いた。

こうして27歳のフィリピン青年は日本とおせいさんにすっかり魅了されてしまう

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