「優越感」と「誇り」は違う
それでも当時は日本の安くて品質の良い家電や車が、米国市場で存在感を増しつつあった。このあたりを『世界が称賛する 日本人の知らない日本』ではこう書いている。
一般大衆の中には「ホンダを買ったけどグレートな車だ」などと、手放しで褒ほめてくれる人がいました。ただ大学教授などのインテリ層はそう単純ではなく、「自動車はアメリカ人が発明したのに、日本人の方が良い車を作れると認めることは苦痛だった」などと、正直に語ってくれた先生もいました。…
ある授業では、何度も日本製品や日本的経営の優秀さが論じられたので、インドネシアからの留学生が「授業でも、ジャパン、ジャパン、ジャパンだ。日本はすごいな」などと羨ましがっていました。
日本の経済的成功はアメリカで感じていた気後れを多少は紛らわしてくれるものだった。しかし、こういうふうに他者との優劣で喜んだりするのは、単なる「優越感」であって、本当の「誇り」ではないのではないか、という気がしていた。
GDP(国民総生産)で世界第二位だと威張ってみても、アメリカには敵わない。アメリカに来て、その豊かさに圧倒されて「気後れ」するということは、この優越感の裏返し、すなわち劣等感だろう。
優越感とは、個人で言えば、有名大学を出たとか、一流企業で出世したとかで、上には上があるし、下の人を見下す事にもなりかねない。そこから他者の成功を妬み、不幸を喜ぶという心理につながる恐れもある。他者との比較で優越感を持つというのでは、精神的に豊かにはなれない。
アメリカ国民の誇り
国民性もあるのだろうが、アメリカ人は明るく、いかにも幸せそうだ。たとえば最近、ケンタッキー州の田舎町での事だが、私が日本からやってきて、ヨーロッパで仕事をして、今はアメリカで働いていると言ったら、「あなたもケンタッキーのような素晴らしい所に生まれていれば、世界を転々とするような苦労はしなくても良かったのにね」と言われて、苦笑した覚えがある。
こういう無邪気なお国自慢は微笑ましいが、そこにはかならずしも他国と比べての優越感だけではないものを、私は感じとっていた。アメリカ国民は、自国が世界一豊かな国という優越感とは別の「誇り」を持っている。
それはアメリカは「自由の国」だという意識である。「自由な国」と言っても、何でも気ままにできる国という意味ではない。圧政や迫害からの自由という意味である。
ヨーロッパでの宗教的迫害から逃れた清教徒が、自由を求めてこの地に辿り着いたのが国の始まりであり、また自由と自治を求めて英国軍と戦って独立を勝ち獲り、さらに黒人奴隷解放のために南北戦争を戦い、第二次大戦ではファシズムから自由世界を救った、という誇りである。