松下電器は人を作っている。松下幸之助が社員と乗り越えた6つの逆境

 

従業員の向上と仕合わせを

大正9(1920)年3月、株式市場の大暴落が起こり、企業倒産が続出、労働者の首切り、賃下げが広がった。労働者を保護する制度もまだない。これに反発して過激な労働組合運動が急速に広がった。日本最初のメーデーが行われたのが、この年の5月である。こうした不況の中でも独自の工夫で発展してきた幸之助の工場には、この時、28名の従業員がいた。

縁あって松下電器に働く従業員の向上と仕合わせを希(こ)い願い、その実現を図ることは経営主の務めである。また仕事をすすめて行くについては、和親一致の協力が一番大切なことである。

 

何としても全員心を一に和気あいあいの内に、その従業員の向上発展と福祉の増進を計らねばならない。

こういう考えのもとに、幸之助も従業員も同じく会員とする歩一会を発足させた。みなの心を一つにして、一歩一歩大地を踏みしめて進んでいこう、という趣旨である。従業員の福祉と向上を計ることが経営主の務め」という幸之助の思想は、不況になれば首切りも勝手次第という荒々しい資本主義とも、また労働者が結束して資本家に対抗しようという戦闘的な社会主義とも違う、第3の道を目指していた。

大震災後の信用確立

大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、死者・行方不明は10万人を超し、東京市の3分の2が炎上した。東京に営業のために駐在していた井植が命からがら帰阪すると、幸之助は「大事ないか、け、けがはせなんだか」と涙を流して喜んだ。

元気な井植は10日ほど休むと、再び上京して営業活動を再開した。卸売りの得意先との売り掛け未収金を回収することが最初の仕事だったが、幸之助と打ち合わせて、その条件は未曾有の大災害なので、売掛金は半分だけいただきこれから納める品物の値段は震災前と同じ、というものだった。

「ええっ」と、得意先の主人たちは目を輝かせた。復興し始めた東京では極端な品不足のために、電気器具などは災害前の数倍の高値となっていたが、それを前と同じ値段でいくらでも供給しようというのだ。

「売掛金は半額で結構」と言ったのに、結局は全額回収できた。中には、自分から支払いを届けてくれる得意先もあった。この一件で「松下に対する東京での信用は一気に確立した。

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