松下電器は人を作っている。松下幸之助が社員と乗り越えた6つの逆境

 

工場はまた建てたらええがな

昭和9(1934)年9月21日朝、室戸台風が大阪を直撃した。風速60メートルと世界観測史上最大の超大型台風に死者行方不明3,000、負傷者1万5,000、家屋被害47万5,000戸と甚大な被害が出た。

おりしも松下電器は従業員1,800人、門真村2万坪の土地を買って、次々と新工場を完成させた所であった。最新鋭の第12工場長・後藤清一が叩きつけるような風の中を這うようにして自分の工場に近づくと、その大屋根は北海の激浪さながらに波打っている。後藤は「みな、作業止めぇ! 全員、となりの鉄骨造りの工場へ逃げ込め、グズグズしていると押しつぶされるぞ!」

最後の従業員と後藤が飛び出した途端、大きな響きをあげて第12工場が倒壊した。後藤は台風が通過した後の工場の残骸を見て茫然とした。そこへ幸之助が姿を現した。「あっ、大将、えらいことになりましたがな」と後藤は言うと、幸之助の心中を思って絶句した。巨費を投じた新工場群がほとんど一瞬にたたきつぶされたのである。

「後藤君、従業員は大事ないか」

「はぁ、幸い怪我人はありまへんが、かんじんの工場のほうが…」

工場はまた建てたらええがな人間さえ無事やったら

そういうと幸之助は工場の被害など目もくれず、すぐに引き返していった。工場群を見回った後、半壊した本店事務所に幹部たちを集めて言った。

松下も苦しいが、松下の大事な得意先もまたあの暴風雨下、無事やったとは思えん。得意先といえば松下と行動をともにしてくれてる人びとや。そこで「お互いに頑張(きば)ろうやないか」という意味で見舞金を届けたいのや。

幹部たちは見舞金をもって、泥の海と化した大阪市内や近郊に向かった。自ら最大の被害を受けながら、従業員を気遣い、得意先を励ます幸之助の行動に、従業員は奮い立ち工場再建は大車輪で進んだ

1万5,000通もの嘆願書

昭和20(1945)年8月16日、敗戦の翌日、幸之助は幹部社員を集めて言った。

松下電器のとる道は、日本の復興再建の道でなければならない。生活必需品の生産に全力を集中しよう。これがわれわれに課せられた使命だ。従業員はひとりも退職させてはならない。いや、街の失業している人々の協力を求めても、なお足らぬくらいだろう。お互いに手をとりあって増産に邁進しよう。

10月には生産と販売を軌道に乗せたが、インフレのために資材、人件費が高騰し、売り上げは月100万円にもならないのに、借人金は2億円、その利息負担だけで月80万円と、経営は火の車だった。

翌年11月、占領軍総司令部から幸之助以下、役員すべての公職追放が命ぜられた。ところが、この時、追放解除を叫んで立ち上がったのが、結成されたばかりの松下電器労働組合であった。時あたかも総司令部の指導で過激な労働運動が燃え盛り、赤旗を振り回して、経営者の追放を要求していた時代である。

「社主幸之助は、全従業員の中心となる大黒柱であり、会社を盛り返し、従業員の生活の安定を保つためには、どうしても追放解除が必要だ」として、全従業員の93%が追放解除嘆願書に署名、さらに1万5,000通もの嘆願書が総司令部に送られた。この熱意が司令部を動かし、わずか半年で幸之助の追放は解除された。

戦後の激しいインフレを「せめて従業員の給料だけは」と膨大な借金をしながら堪え忍んだ松下は、昭和25年の朝鮮戦争特需で息を吹き返し、その後高度成長期に世界的な大企業に成長していく。

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