【京都】複雑な女心。家康に味方した秀吉の妻「ねね」縁の地へ

 

当時としては珍しかった恋愛結婚で結ばれたと言われる豊臣秀吉と妻のねね。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、ねねのゆかりの地である「高台寺」や「高台寺天満宮」などの観光スポットが、女性として心が充分に満たされていたとは言い難い彼女の半生と重ねながら紹介されています。当時は大阪城まで見渡すことができたと言われる高台寺。ねねはひとり大阪城を眺めながら、何を考え、何を思っていたのでしょうか。

北政所「ねね」は豊臣家滅亡を願った?

八坂神社の北門を背に少し南に下り、やや東側へ坂道を登った場所に「ねねの道」があります。祇園祭の山鉾をかたどった祇園閣という建物が建つ大雲寺から清水寺へ向かう二年坂、三寧坂に続く石段の小道です。この道はねねをゆかりとしていて、高台寺のすぐ西側に続く石畳の道です。京都の一番と言っていいほど有名な観光名所ですよね。

今回は豊臣秀吉の正室だった「ねね」とねねが亡き秀吉の菩提を弔い建てた高台寺についてお話ししたいと思います(ちなみに最近の学者さんは「ねね」のことを「おね」と呼ぶ人が増えてきています。歴史も時代と共に変化していきます)。秀吉の死後、ねねはこの道を歩いて高台寺を行き来し、亡き夫を慕っていたと伝えられています。

ねねは由緒ある家の娘だったにも関わらす、百姓上がりの秀吉に嫁ぎました。結婚当初は天下人になるなどと思ってもみなかったでしょう。そんな秀吉を長年陰で支え続け天下人になるまでにした女性です。

彼女は秀吉との間に子宝に恵まれなかったため豊臣家のために秀頼を産んだ側室・淀君の存在を立て陰で夫を見守りました。当時は今よりも身分によって生活や行動が制限されていた時代です。武家の娘として生まれ養子に出された先も戦国武将である浅野家で育ちました。ねねは武家育ちという自分の身分を下げてまで百姓上がりの秀吉を必死で支えました。しかし秀吉は天下人になってからは側室・淀殿との仲を深めていきます。

その結果、世継ぎ・秀頼が産まれ、益々ねねから離れていってしまいました。見晴らしのいい場所にたどり着いた途端にねねの幸せは崩れ去っていきました。昔はそのようなことが比較的当たり前だったといえども、ひとりの女性として心穏やかではなかったのではないかと察します。血の通う人間であれば「こんな家、取り潰してやりたい!」と思うこともあったと思います。

高台寺は京都を一望できる東山の一角にあります。ねねの道から台所坂を上った高台にありとても見晴らしのいい場所です。高台寺の入口から少し離れた場所に高台寺天満宮という小さな神社があります。そこには恨みと怒りに満ちた菅原道真公が祀られているのです。

ねねは菅原道真公を崇拝していたといいます。それを知っていたねねの兄がここに社殿を造営したと伝わっています。優しいお兄さんですね~。しかしただの優しいお兄さんという以上に、妹のために神社を造営してあげたくなる強い理由があったのではないかと思います。

天満宮は通常学問の神様として庶民に親しまれています。この天満宮は、開運・出世・健康長寿・災難厄除のご利益がある場所とされています。ねねが秀吉と出世し、天下統一を果たしたことにちなんでいるわけです。

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