日本の工業を米から守る。トヨタ自動車の創業者が胸に誓った決意

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今や日本を代表する企業として不動の地位を築き上げた「トヨタ自動車」ですが、その裏には創業者である豊田喜一郎氏の血の滲むような努力がありました。紡織工場を営んでいた父の「これからは自動車の時代だ」という遺志を受け継ぎ、自動車生産に乗り出した喜一郎氏でしたが、そこには高い壁が立ちはだかっていたのです。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、その苦労とトヨタ自動車繁栄の歩みをご紹介します。

豊田喜一郎 ~日本自動車産業の生みの親

わしは織機を発明し、お国の保護(特許制度)を受けて金をもうけたが、お国のためにも尽くした。この恩返しに、喜一郎は自動車をつくれ。自動車をつくってお国のために尽くせ。

自動織機の発明で多くの国内外特許をとり、日本の紡織産業発展に貢献した豊田左吉は昭和2(1927)年11月に勲三等瑞宝章を授与され、天皇陛下への単独拝謁の栄に浴した。その帰宅後の内輪の宴会で、長男・喜一郎に語った言葉である。

左吉は米国を旅行した際に、多くの自動車が大衆の足として、また物資運搬の担い手として活躍している様を見て「これからは自動車の時代だ」「立派な自動車が作れんようでは日本も世界の工業国などと威張ってはおれん」としきりに繰り返していた。

左吉は英国プラット社に自動織機の特許を売って得た100万円を喜一郎の研究のために与えた。現在の貨幣価値なら数十億円であろう。

このままでは日本は永久にアメリカの経済的植民地になる

無口な喜一郎は左吉の言葉を黙って笑って聞いていたが、自動車への思いは同じだった。

大正から昭和初年にかけて、日本でもバス、トラック、タクシーが登場したが、それらのほとんどはアメリカ車であった。フォードとGMは日本に組立工場を作り、昭和6年には合計2万3,000台を販売していたが、国産車は数社が試みていた程度で年437台に過ぎなかった。

自動車は鉄、ゴム、ガラス、繊維など広範な材料・部品を必要とする総合工業である。それなのに日本の道路という道路を走っているのはアメリカ車ばかりである。喜一郎はこう語っている。

我々日本人の誰かが自動車工業を確立しなければ、日本のあらゆる民族産業が育ちません。それは別にトヨタでなくともいい。けれども現状のままでは、カナダがフォードのノックダウン生産(部品を輸入し組立だけを国内で行う)に占領されて自動車工業など芽もないように—-日本も同じ道をたどります。引いては日本の工業が全部アメリカの隷属下に入り、日本は永久にアメリカの経済的植民地になってしまいます。

誰もやらないし、やれないから俺がやるのだ

一方、軍部は輸送手段としてのトラックに目をつけ、国産化を進めようとしていた。そこで三井、三菱、住友などの財閥を大合同させ、国産自動車工業を起こすという案まで立てていたが、肝心の財閥の方が、GM、フォードの支配体制を崩すのは不可能だし、日本で複雑かつ緻密な多種類の自動車部品を製造することはとても困難だ、そんな危険な事業に莫大な設備投資はできない、として乗ってこなかった。

三井三菱といった大財閥さえ手出ししない事業を、と身内は反対したが、喜一郎は頑として聞き入れなかった。その決心をノートにこう書いている。

困難だからやるのだ。誰もやらないし、やれないから俺がやるのだ。そんな俺は阿呆かも知れないが、その阿呆がいなければ、世の中には新しいものは生まれないのだ。そこに人生の面白みがあり、また俺の人生の生き甲斐が、そこにあるのだ。出来なくて倒れたら、自分の力が足りないのだから潔く腹を切るのだ。

こう決心していた喜一郎は周囲の反対に潰されないよう、社内でも秘密裡に高精度の工作機械を輸入したり自ら図面を描いたりして、準備を進めていた。

今年中に試作一号機を完了させる

昭和9(1934)年1月29日、豊田自動織機の株主総会で喜一郎は自動車事業に取り組むこと、そのために資本金を100万円から一挙に300万円に増資することを明かし、今年中に試作一号機を完了させる、と宣言した。身内の反対は親父の遺志で押し切った

しかし、その一号機は、設計はできていない、工場はない、工作機械もほとんどない、膨大な自動車部品の手当もできてない、さらに現場の工員たちの技術もない、と、まさにないないづくしのスタートであった。

工作機械はヨーロッパに出張中の社員に命じて、かねてから選んでおいたものを買い集めさせた。試作工場は密かに設計を進めており、既存の自動織機の工場の裏側で突貫工事を始めさせた。部品は国産で揃えるために、国内の部品メーカーをしらみつぶしに当たらせた。

自動車用の少量でかつ特殊な鉄鋼は、軍艦や大砲用の生産に忙しい鉄鋼メーカーは相手にしてくれないだろうと、製鋼会社のベテラン技師長をスカウトし、4トンと2トンの電気炉を持つ小さな製鋼所を作らせた。

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