偏見を賞賛に変えた奇跡。日系志願兵「第442連隊」の栄光と影

ise20170220
 

第二次世界大戦の戦火の下、アメリカのために命をかけて戦っていた日系人がいたことをご存知でしょうか。ハワイに住む日系青年たちが、自ら戦地に赴くことを願い出たのです。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、アメリカ人として生き、アメリカのために戦い、アメリカのために死にたいと願った日系米兵の苦難と栄光の道のりが紹介されています。

日系米兵の二つの戦い

1944年10月、ドイツとの国境近くにあるフランスの小さな町ブリエアに住むレイモン・コラン医師は、米軍の飛行機の音を聞きながら、「明日こそは」とドイツ軍からの解放の日をもう6週間も待っていた。

そんなある日、コランが2階にいる時、「ボッシュ?」と階下から叫ぶ声が聞こえた。それはフランス人がドイツ兵を陰で憎しみを込めて呼ぶ言葉だった。待ち望んでいた米兵が、敵兵を捜す声に違いない。コランは喜びに浮き立って、一気に階段を駆け下りた。だが、そこで見た光景にコランは驚きのあまり凍りついた。なんと二人の「日本軍の兵隊が銃を構えているではないか。

日本はドイツの同盟国だ。待ちに待った米軍どころか、ブリエアは地球の反対側からやってきた日本兵の手に陥ちたのか。新たなる恐怖の占領か。ああ神よ!

すると、「日本兵」の一人がニッと白い歯を見せ、自分の胸を親指で指して「ハワイアン」と言った。それでもコランが何だか分からずにいると、笑顔で握手を求め、コランの肩を抱いた。

日本兵たちはドイツ軍を追ってすぐに去っていった。翌日からは白い顔のアメリカ兵がやってきた。

「第100大隊」

この「日本兵とは第100大隊に所属するハワイ出身の日系米兵だった。真珠湾攻撃の約1年前から選抜徴兵制が始まったが、ハワイでは人口の4割が日系人である。徴集された兵も約半数が日系青年だった。

彼らが入営する時は、義理のある米国に恩を返すときだと、親たちは盛大に祝った。徴集兵が出発する駅では、「祝 入営 ○○君」と日本語で書かれたのぼりが何本も風にひらめいて、その先に星条旗がなかったら、日本国内の光景と見間違えたろう。

しかし日本軍による真珠湾攻撃の後では、日系米兵だけが本土に送られた。もし日本軍がハワイに上陸し、米軍の軍服を着込んで侵入されたら、日系兵と見分けがつかない、という心配からだった。ハワイから送られた日系米兵1,432名は第100大隊」とされた。通常は師団―連隊―大隊という構成になるはずが、第100大隊には親となる連隊がなかった。引き取り手となる連隊がない「第100大隊」に、日系兵たちは不安と不満を隠しきれなかった。

日系兵たちは英語と日本語とハワイ語の入り混じったひどい英語を話したので無教養に見えたが、実は大半が高卒で、大学入学者も12%いた。彼らが家族に書き送る英語の手紙は文法に適ったもので、検閲係の白人将校を驚かせた。大隊の知能指数は平均103で110以上なら士官学校行きである。白人なら将校になるはずの兵が多数いたのである。しかし第100大隊の将校はほとんど白人で固められていた。

第100大隊は、北部のウィスコンシン州、続いて南部のミシシッピー州で訓練についた。銃機関銃を据える時間は陸軍の平均が16秒だが、彼らは5秒という驚異的な数字を出した。平均身長160センチと子どものような体格なのに、フル装備のまま1時間5.3キロのペースで8時間ぶっ続けに歩いた。普通なら1時間に4キロがせいぜいである。

過酷な演習の合間に、彼らは日系人として米国のために戦う意義を語り合った。

俺たちは二つの戦いを戦っている。アメリカに代表される民主主義のためと、そのアメリカに於いての俺たちへの偏見差別とだ」

人種偏見をはね返して、対等なアメリカ市民としての立場を得るためには、戦場で勇敢に戦い、アメリカのために血を流すしかない、というのが、彼らの思いであった。

print
いま読まれてます

  • 偏見を賞賛に変えた奇跡。日系志願兵「第442連隊」の栄光と影
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け