やってきた蒋介石の軍隊
楊さんの幸福な日々も、日本の敗戦とともに終わりを告げた。その最初のショックは、中国から蒋介石の軍が上陸した時だった。兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒に鍋と七輪をぶら下げ、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていた。手で鼻をかんだり、痰を吐いている人もいて、こんな兵隊がやってきて、台湾はどうなるのか、と心配になった。その心配は現実のものとなった。今まで戸締まりなどしなくても安心して寝ていたのに、家の自転車が盗まれてしまった。
終戦2年目の1947(昭和27)年2月28日には、蒋介石政府の横暴に怒った民衆が台湾全土で暴動を起こした。2・28事件である。そのきっかけを作ったのは、中国人の密輸タバコ取締官が台湾人の女性の所持金を取りあげ、銃で殴っているのを、日本海軍から戻ったばかりの若者が守ろうとしたことだった。
この暴動を鎮圧するために、全土で3万人近くの台湾人が殺された。楊さんの父方の親戚の湯(とう)さんも、大衆の見守る中で銃殺された。学生たちの命を守ろうと、学生連盟の名簿を役所から持ち出して燃やしたからである。湯さんの奥さんが夫の亡骸に毛布をかけてやろうとすると、中国兵はその手を払いのけて、銃剣で死体を突っついた。中学2年生の楊さんには、あまりにも衝撃的な光景だった。
あの平和で穏やかな時代に戻りたい
蒋介石政権の戒厳令は40年間も続いた。そしてようやく「中華民国」から脱却して「台湾」への道を歩み始めたのは、「私は22歳まで日本人だった」と語る前総統・李登輝の時代になってからである。
日本時代は、人民は政府を信頼していました。そして、それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげたいという気持ちを表していました。また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい雰囲気が溢れていました。
もしもタイムマシンで元に戻れるなら、もう一度日本時代に戻りたいです。あの平和で穏やかな時代に。
台湾は別名をフォルモサともいう。16世紀にやってきたポルトガル人が、緑溢れるその美しさに感嘆して「フォルモサ(麗しの島)」と呼んだのである。その麗しの島で、かつて台湾人と日本人が力を合わせて幸福な時代を築いた。それはまた日本人の目指す理想の社会でもあったろう。
日本時代とは私にとって、素晴らしい時代であり、私の人生の道標をこしらえてくれたと言っても過言ではありません。私の向かうべき人生の指針を与えてくれました。
私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻(へんぽん)とはためいています。
(『日本人はとても素敵だった』楊素秋・著/桜の花出版)
文責:伊勢雅臣
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