日本近代史の謎。西郷隆盛は本当に「征韓論者」だったのか?

 

なぜ西郷は立ち上がったのか?

しかし朝鮮との提携という志はならず西郷は失意のうちに郷里・鹿児島に戻る。そこでも西郷は江華島事件に激怒したように、国政の行方を憂い続けた。その果てに起こしたのが、西南戦争である。なぜ西郷は立ち上がったのか?

ひとつの説は政府が薩摩に密偵を送り込んでいたという偶発的な出来事をきっかけに暴発した弟子たちを西郷が抑えきれずに必敗の戦争が起こったという説である。

これについて、岩田温氏は次のような鮮やかな反論をしている。

しかしながら、この説は重大な点を見落としてしまっている。それは、もしも必敗で不要の戦争であれば、数多くの門弟、そして将来の日本を担う官軍を大々的に激突させなくとも、西郷が極少数の部下を率いて官軍に斬り込めばよい。だが、後に詳述するように西郷は官軍に対して徹底的に抗戦し、部下にも敢闘を命じている。この理由が説明出来ないのである。部下を愛し、日本を愛した西郷が自らの道連れのためにあたら若い有能な命を犠牲にしたとは考えにくい。
(『日本人の歴史哲学―なぜ彼らは立ち上がったのか』岩田温・著/展転社)

「無道の国への道」を拒絶しなければならない

それでは、西郷は何のために立ち上がったのか。岩田氏は、江藤淳の『南洲残影』を引きつつ、こう述べる。

明治維新の目的とは無道の国から派遣された黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。ところが天子をいただく明治政府は何を為したか。彼らは自ら進んで国を西洋化し無道の国への道を歩むに至った。…

 

では何故に国家を守らんとするものが、国家を代表する政府に反旗を翻すのか。

 

それは国家とは現に存する国民の専有物ではありえないからに他ならない。過去、現在、未来と連綿と続く垂直的なるもの、それこそが西郷の守らんとした国家であったからである。現在の政府は垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。これを断固として拒絶せねばならない。これが西郷の思いではなかったろうか。
(同上)

「一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候」

西南戦争の末期、西郷が城山に立て籠もった際、山県有朋は西郷に自刃を勧告する書簡を送った。両軍の死傷者は毎日数百人に達し、薩摩軍の勝機がないことは明らかであるのに、徒に守戦の戦闘をして何が望みなのか、と問いつめる。

西郷が単に弟子たちの暴発に乗って心ならずも立ち上がったというなら、西郷はこの勧告を受け入れたであろう。しかし、西郷はそうしなかった。西郷は二人の使いを敵陣に送って挙兵の大義を説明させ自分たちは最後の決戦に臨む。以下は西郷の絶筆である。

今般河野主一郎・山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ且(か)つ義挙の趣意を以て大義名分を貫徹し、法廷において斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候也。

 

今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に派遣した件、味方の決死の覚悟を敵陣に伝えるとともに、この挙兵の意義を以て、大義名分を貫徹し、理がどちらかにあるのかを明らかにして斃れるつもりなので、諸君らは安堵して、この城を枕にして決戦するに際し、今一層奮発して、後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように。

安堵」という言葉が印象的だ。彼らが恐れたのは、「義挙の趣旨」と「大義名分」が世に伝わらず、後世の人間から単なる「不平氏族の叛乱」であるかのように見なされる事だったのだろう。その心配はもうないから、「一統安堵し城を枕にして決戦しようと西郷は呼びかけたのである。

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