朝鮮王朝に嫁いだ皇族。韓国障害児の母、李方子妃物語

 

終戦後の臣籍降下

昭和20年8月、日本が敗戦を迎えると、占領軍司令部は各皇族の特権の剥奪にかかった。宮内庁から支給されていた歳費は停止され、高額の財産税が賦課された。李王家も、昭和天皇が特に行く末を案じられたが、皇族の身分を奪われ財産の大半を財産税として取り上げられ残った宅地などもペテン師に奪われてしまった

方子妃は、これからは私が強くなって殿下はそっと静かに、したいように暮らしていただこう、戦うのも私守るのも私なのだ、と決心した。

昭和25(1950)年には、垠殿下はマッカーサーに招かれて来日した大韓民国初代大統領・李承晩と会談をした。李王朝につながる血統を自慢していた大統領は、国民の同情を集める垠殿下にライバル意識を持ったのか、冷たく「帰国したいなら帰ってきなさい」と言い、殿下は落胆して帰国をあきらめた

昭和35(1960)年、李承晩は大統領選4選に成功したが、不正選挙を怒る学生革命により失脚、翌年クーデターに成功した朴正煕が、この3年前に脳血栓で倒れた垠殿下の容態を心配し、生活費、療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連絡してきた。

反日感情渦巻く韓国へ

昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国に帰った。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、そのまま病院車に乗せられ、ソウルの聖母病院に直行した。ちぎれるように手をふる出迎えの人並みも、目には入らなかった。たとえ一歩でも半歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった、と方子妃は切ない思いをした。

当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策の結果、反日感情が横溢していた。小学校から、中学、高校と反日教育が施され、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどであった。

方子妃が勝手が分からずに、使用人にまで丁寧に頭を下げると、たちまち非難の的になった。「チョッパリ女出て行け」などと罵倒されたこともあった。チョッパリとは豚足のことで足袋で草履を履いた足はブタのひづめと同じだというのである。

print
いま読まれてます

  • 朝鮮王朝に嫁いだ皇族。韓国障害児の母、李方子妃物語
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け