朝鮮王朝に嫁いだ皇族。韓国障害児の母、李方子妃物語

 

障害児の教育を始める

そんな中で、方子妃は障害児の教育を始める。ポリオなどで麻痺した子どもたちは、家族の恥として家の中に閉じこめられていた。方子妃はその子供らの自立能力を引き出し、育て上げることを目指した。

新聞に心身障害児募集の公告を出すとたった一人8歳の女の子の応募があった。交通費程度で来てくれる優秀な若い先生を見つけ、また場所も延世大学の一隅を間借りできた。机などは古道具屋を廻って調達した。あの家にポリオの子供がいる、と聞くと方子妃は訪ねていく。おびえた眼で迎えられた事もたびたびだった。それでも1年して聾唖や小児麻痺の子どもが10人ほども集まった

政府から支給される生活費は、垠の入院費と生活費でほとんど消えてしまう。方子妃は資金を稼ぐために趣味で作っていた七宝焼を売ることを始めた。足踏みバーナーで長時間火を起こしていると、足が腫れ上がった。夏の暑い日には窯の熱気を浴びて、汗だくだくになる。すでに60代半ばの方子妃には重労働であった。

韓国障害児の母

生徒数が多くなると、新しい土地を探し、建物を建て、「慈恵学校」が正式に発足した。より多くの資金を集めるために方子妃は王朝衣装ショーを始め自らも宮中衣装を着て海外を廻られた。これには、旧朝鮮王朝の権威と誇りを大事にしてもらいたい、と非難が集中した。しかし、妃殿下はそんな非難をよそに80歳を過ぎても海外でのショーを続けられた

このような方子妃の努力で慈恵学校は形を整え、児童数150名、校地4,000坪、教室や寄宿舎以外に、豚舎、鶏小屋、農場まで備える規模に成長していった。

方子妃が日本への募金旅行から帰った時の帰った時のことである。風呂場をのぞくと、せっけんの泡をつけた子どもと、お湯のしずくをしたたらせた子どもが抱きついてくる。方子妃はよそゆきの洋服が泡だらけになるのもかまわず、子どもたちを抱き寄せ、「ただいまと一人一人の顔をのぞき込む。一緒に訪れた在日韓国人の権炳裕は、この光景を見て胸がつまり、この方の為ならどんな応援もしようと心に誓ったという。権はその後の在日大韓民国婦人会中央本部会長である。

平成元(1989)年、方子妃は87歳で逝去された。5月8日、古式に則って1,000人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王朝王宮から王家の墓までの2キロの道を進んだ。墓にはすでに19年前に亡くなられた垠殿下が待っている。韓国からは姜英勲首相、日本からは三笠宮同妃両殿下が参列され、多くの韓国国民が見送った(『日韓2000年の真実』)。

日本の皇族として生まれ朝鮮王朝最後の皇太子妃となりさらに韓国障害児の母」と数奇な運命を辿られた方子妃は、「一人の女性として妻として私は決して不幸ではなかった」と述べられている。日韓の架け橋になろうとの15歳の時の決意のままに、その後の72年間を生き抜かれたのである。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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