世界初の超高速鉄道「0系新幹線」と「零戦」の知られざる関係

 

美しい機械は性能も素晴らしい

フランス国鉄の技術開発担当の副総裁を務めたフィリップ・ルムゲール氏は、こう語ったことがある。

日本の新幹線の建設には本当に刺激を受けた。それもあって私は新婚旅行の目的地に日本を選んだ。日本滞在中に新幹線についていろいろな人々と語り、資料も読んだが、最も強い印象を受けたのは島秀雄氏のリーダーシップと鉄道技術研究所の存在だった。第二次大戦中に軍隊の研究所にいた人たちが戦後、鉄道研究所に移り、その人たちの理論と研究が新幹線の実現に大きく貢献したということが非常に印象的だった。
(同上)

新幹線の技術的成功の原因をつきつめると、結局、当時の技師長・島秀雄と、かつて海軍で名機零戦など戦闘機開発に従事した技術者たちの存在に行き着く。

島秀雄は大正14(1925)年に鉄道省に入り、工作局車両課で蒸気機関車の国産化に努めた。

合理的なメカニズムは、美しくなければならない。美しい機械は性能も素晴らしい。
(『新幹線をつくった男 島秀雄物語』高橋団吉 著/PHP研究所)

こう語る島は、車両課で10年間、蒸気機関車の設計に従事し、「日本のSL(蒸気機関車)の黄金時代」を築く。昭和11年からの10年間で1,115両も生産された名機D51(デゴイチ)も島の設計だ。D51は性能や見た目ばかりではない。保守・修繕作業がやりやすいように、微に入り細に入り、工夫を凝らして設計されていた。だからデゴイチは保守・修繕の現場の人間にも一番愛された蒸気機関車であった。

性能コスト保守のやりやすさ、こういう様々な要求を全体的にバランスをとって、中庸の美学を追求する島の姿勢は、戦後の新幹線の開発にも十分に発揮されている。

戦前に計画されていた弾丸列車

昭和14(1939)年7月29日、鉄道大臣招集による鉄道幹線調査会が開かれた。この調査会は11月までの4回の会議で、東京~下関を9時間で結ぶ弾丸列車」の構想をまとめた。全線で踏切のない立体交差の広軌(1,435mm)線路を新設し、時速150キロで走らせる。従来の狭軌(1,067mm)では、車体が安定せず、高速を出せないからである。将来は200キロを超える超特急で東京~大阪を3時間半で結ぼうという、ほとんど戦後の東海道新幹線そのものといってよい計画である。

計画を策定した中心人物は島安次郎島秀雄の実父であり、明治期の鉄道技術の中心人物である。弾丸列車計画は、翌15年に帝国議会で予算案通過、16年には新丹那、日本坂のトンネル工事が始められた。日本坂トンネルは昭和19年9月に完成。現在の東海道新幹線ルートが通る静岡~掛川間の日本坂トンネルは、この時に作られたものだ。

昭和15年1月、島秀雄は鉄道省工作局に転任し、弾丸列車を牽引する機関車の設計を命ぜられた。戦争がなければ、このまま昭和29年には弾丸列車が実現していたはずである。しかし戦局悪化により計画も立ち消えとなり、島安次郎は志半ばのまま戦後まもなく没した

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