世界初の超高速鉄道「0系新幹線」と「零戦」の知られざる関係

 

「世界の驚異のうちに短時日に完成成功した所以」

この課題に対して、島は「未経験の新技術は原則として使わない」という方針を貫いた。逆に言えば、日本に蓄積されていた技術を集大成すれば時速200キロ程度の高速列車は十分に実現できる、と島は考えていた。『東海道新幹線技術発達史』まえがきにはこんな一節がある。

すなわち我々日本の鉄道技術は軌間の狭いという制約の中でそれを意識して極度にまで発達進展してはち切れんばかりとなっていたという事が出来るのである。従ってこれが一たび機会を得て東海道新幹線の建設を広軌を以て行うこととなった場合、制約をはずされて丁度閘門(こうもん、堰)を切った様に一時に飛び出して世界の驚異のうちに短時日に完成成功した所以である。
(同上)

新幹線を「驚異の短時日」で完成できたのは、今まで蓄積されていた技術が堰を切ったように飛び出したからであるという。島自身も、後年たびたびこう回想している。

新幹線車両の設計にあたって、狭軌でさんざん苦労した私たちは、技術的にそう困難に感じることはなかった。
(同上)

新幹線は、戦前戦後を通じて数十年に渡って蓄積された日本の鉄道技術が一気に花開いたものと言える。しかし、同時にその蓄積の相当部分は、高速長距離列車という島のビジョンがあったからこそ、形成されたとも言えよう。

「日本国民の叡智と努力」

昭和39年10月1日午前6時。東京駅9番ホームでひかり1号列車の出発式典が執り行われていた。発車のベルと同時に、国鉄総裁によるテープカットが行われ、くす玉が割れる。50羽のハトが飛び立ち、万歳三唱に送られて、ひかり1号列車が静かに動き出した。

この晴れの舞台には島秀雄の姿はなかった。前年5月に十河が2期目の総裁任期を終えて退任した時、一緒に辞任したのである。新総裁からは留任を要請されたが、すでに99%完成の見通しが立っているので技術的には心配ない、と固辞した。

島は東京高輪の自宅で、一番列車が通り過ぎるのを自宅の窓越しに見送った。その後、意見を求められると、しばしばこう言った。

東海道新幹線は、それぞれの分野に蓄積されていた既存の技術を活かして、現場のみなさんの創意工夫によってできあがったものです。私は技師長として、単にそれをとりまとめたにすぎない。

東京駅の新幹線中央乗換口にはブロンズ製の記念碑があり、こう刻まれている。

この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

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