台湾人は忘れない。命を落としてまで台湾に尽くした5人の日本人

 

12年かけて完成した森林鉄道

当時、台湾では南北を結ぶ縦貫鉄道の建設が進められていた。その資材調達先として注目されたのが、阿里山であった。しかし、河川は流れが急で水量が不安定なため、水運を用いることはできない。そこで台湾総督府は森林鉄道の建設を決め、明治33(1900)年から地勢調査を始めていた。

河合博士は鉄道ルートの選定からこのプロジェクトに携わった。地形的な制約が大きいため、軌道幅762ミリという軽便鉄道の規格で設計された。自然災害もあり、何度となく挫折しながらも工事は進められていった。7年後の明治40(1907)年西南部の嘉南平原北端の嘉義から、標高2,000メートルの二萬平までの66キロが開通。12年後の大正2(1912)年には阿里山まで全通し、本格的な森林資源の搬出が始まった。

伐採は生態環境を維持しながら計画的に行い同時に植林事業も進めて森林資源の保全を図った。河合博士はこれらの計画を直接指導した。この実績は林業関係者の間では今も高い評価を受けている。台湾南部の灌漑事業を手がけて「百万人の農民を豊かにした」と李登輝元総統に言わしめた八田輿一氏に並ぶとも言われている。

河合博士は昭和6(1931)年に東京の自宅で永眠した。台湾で罹ったマラリアが原因だったと伝えられている。その後、門下生たちによって、記念碑が建立されることになり、阿里山神社の神苑がその場所に選ばれた。ここには昭和10(1935)年に建立された樹霊塔も残っている。切り出された樹木の霊を慰めるためであった。

日本最長の大橋梁

西南部の高雄県とその東の屏東(へいとう)県はかつて下淡水渓(しもたんすいけい)と呼ばれた大河川を県境としている。流域面積では台湾最大の河川である。この河川に大正2(1913)年、3年がかりで全長1,526メートルもの大橋梁がかけられた。

完成時には、天竜川鉄橋や朝鮮の鴨緑江鉄橋よりも長く、日本最長を誇っていた。この橋はトラスという複数の三角形を組み合わせた構造を用いている。24連ものトラスが延々と続く光景は、世界の鉄道技術者を感嘆させるに十分なものだったという。

この橋梁が果たした役割は大きかった。これまで下淡水渓によって隔絶されていた屏東地方は、新興産業都市・高雄と直接結ばれ、農産物を鉄道で輸送できるようになった。また高雄の港湾施設にインドネシアからボーキサイトが輸入され、アルミニウム工業が発達した。屏東産のパイナップルは、アルミ缶に詰められ、大半が日本に出荷されるようになった。

高雄から鉄橋を渡る手前に位置する九曲堂駅の駅舎近くに古めかしい、見上げるような大きさの石碑が建っている。鉄橋の架設に努めた飯田豊二という技師の碑である。

飯田技師は静岡県生まれで、明治30(1897)年に28歳の若さで台湾に渡った。明治43(1910)年には鉄道部技師となり、翌年から台湾総督府鉄道部打狗(高雄)出張所の技師として、下淡水渓橋梁の架橋工事に携わった。

しかし、過労がたたって病に倒れ、自らが手がけた鉄橋の完成を見ることなく、大正2(1913)年6月10日、台湾総督府台南医院で世を去った。享年40であった。その後、台湾総督府は飯田技師の功績を讃えこの碑を建立したという。

現在では石碑を中心に公園が整備され、その由来が中国語と英語、日本語で案内板に書かれている。郷土史に興味を持つ人びとが頻繁に訪れ、鉄橋と共に歴史遺産の扱いを受けている。

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