スバルに受け継がれる、東洋最大の飛行機会社を作った男の遺志

 

「航空立国」

昭和5(1930)年、知久平は衆議院選挙に立候補し群馬県で最高得票で当選した。「飛行機の中島」と言えば、群馬県で知らない者はいなかったので、選挙運動をする必要もなかった。

知久平は政治の世界で出世しようという野心はなかった。米英など富強な白人帝国主義国から日本を護るには、大艦巨砲主義ではなくあくまで航空戦力による国防でなければならないと訴えることが、政治家となった動機であった。そして、陸海軍から空軍を独立させ、世界一の航空戦力を持つ「航空立国」を訴えた。

知久平の政治家としての活動のハイライトは、昭和17(1942)年秋に構想した「必勝戦策」であろう。これは後に「富岳」と命名される超大型重爆撃機を開発し、これをドイツ占領下のフランスから出撃させて、米国東部に集中する製鉄所、アルミ工場などを全滅させようという雄大な構想だった。すでに知久平の耳には、米国で開発されつつあるB29の情報が届いており、これで日本が爆撃される前に米本土を叩こうと考えたのだった。

軍部は、そんな夢のような飛行機は実現不可能ではないかと疑ったが、知久平は重役会議の席上、次のように言って、自社での開発を進めさせた。

中島飛行機は金儲けのためにあるのではない。国家のために存在しているのだ。軍のワカラズ屋どもが何をいおうとも、国が危機に直面している時、安閑として祖国の国難を傍観していることができるか! …そのために会社は大損してもかまわぬ。
(同上)

知久平は東条首相を直接説得して、「富岳」の開発をスタートさせた。しかし、この計画は新しくできた軍需省の航空兵器総局長官・遠藤三郎中将によって中止させられてしまった。遠藤中将は、飛行機を一機でも多く必要とする前線のために現有機の増産を優先させたのである。

「心理的な敗北感をいつまでも持たない」

知久平は戦後まもない昭和24(1949)年10月、享年66で世を去ったが、その直前、次のような言葉を残していた。

日本は今は焼け野原である。…しかし、私は日本の復興は意外に早いと思う。日本の民族は優秀である。特にその科学的技術において、決して欧米のエンジニアに劣る者ではない。必ずや近い将来に日本の産業は復活する。

 

何よりも大切なことは、精神的にまいらないことだ。…もし対等の資源を与えられたならば、少なくとも中島飛行機の技術はアメリカには負けていなかったと思う。したがって、負けたからだめだ、というような心理的な敗北感をいつまでも持たないで、早く自分の気持ちを復興させることだ。
(同上)

知久平の遺言に励まされた如く、その後、日本の産業は奇跡的な復興を果たし、その後の高度成長時代には、いくつもの分野でアメリカを凌駕していった。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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