「息子の悲願が、ようやく今日、実りました」
実際に、車の生産を始めるにあたっては、従業員向けに15分ほどの短編映画『共に前進しよう』を作った。鈴木自身のシナリオで、最初に戦争直後の日本の焼け野原を映し、それから発展した日本の姿を映す。「ひとりひとりが一生懸命働いたから、日本もここまで復興できた」というメッセージである。
また、社員食堂で管理職と従業員が一緒に席を並べて食事しながら談笑している場面、従業員が病気で仕事を休むと班長が夜、自宅まで見舞いに行く場面などを映して、日本流の工場運営とは、どんなものかを伝えた。
1983(昭和58)年12月14日、工場のオープニング・セレモニーには、インディラ・ガンディー首相も駆けつけた。首相は「スズキがインドに日本の労働文化を移植してくれた」と称賛した。
また、この日は首相の亡き次男の誕生日だった。次男は大の車好きで、国民車構想をぶちあげ、自ら工場建設を始めたのだが、飛行機事故で不慮の死を遂げていた。この工場を引き継いだのが、スズキのプロジェクトだったのである。
ガンディー首相は「息子の悲願が、ようやく今日、実りました。息子が生きていてくれたら、さぞかし喜んでくれたでしょう」と語った。子供を思う母親の気持ちは、どの国でも同じである。
「心と心が通い合うことが重要だ」
アルトをベースにした車を売り出すと、作るそばから売れていった。当時のインドでは、車は高関税もあって、普通の市民には手が届かない存在だった。現地で「マルチ800」と呼ばれている車は、2代目アルトを持ち込んだものだ。累計生産台数は270万台余に達していて、いまや「インドの国民車」と言っても過言ではない。
新車販売におけるシェアも、多目的車を除けばスズキが50%を超えている。インドに行った日本人は、右を見ても左を見ても、日本で見慣れたスズキの「S」のマークのついた車を見て驚かされる。
鈴木会長は、インド・プロジェクトの基本契約を提携したとき、インドでの記者会見で「人間は皆同じ。言語、風俗、習慣、環境が違っても、心と心が通い合うことが重要だ」と述べた。
現場を歩き回って、1円でも安くしようという「中小企業のおやじ」だからこそ、良いクルマを一般大衆に手が届く値段で提供したいという相手国と、心が通い合うのである。日本国内に安住して「世界は一つ」などと夢想を語るのとは、本質的に異なる姿勢である。
2007(平成19)年は、インド独立60周年だった。それを記念して『ザ・タイムズ・オブ・インディア』という大手新聞が「今日のインドをつくった人、育てた人」という特集を組んで、100人を選んだ。外国人はわずか3人だったが、その一人に鈴木が選ばれた。
文責:伊勢雅臣
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