外国人とは分かり合えない、捕鯨を文化として繋いできた日本の歴史

 

江戸時代には鯨食が庶民にも広まった

江戸期になると、庶民の間にも鯨食が普及していった。当時の江戸の町を描いた絵を見ると、居酒屋の軒先に「鯨」と書かれているものがある。

元禄時代に刊行された『本朝食鑑』は、さまざまな食べ物が登場するが、「毒がなく、最も人の体に良くて美味しいものは何かといえばクジラである」と書かれている。

江戸時代中期には、『勇魚取絵詞(いさなとり・えことば)というクジラの専門書も出版されて、クジラの種類、捕り方、解体の道具と方法、部位の名称などがすべてまとめられている。その付録の『鯨肉調味方』には、クジラの67の部位のすべての調理法が記述されている。

一般的な食べ方としても、生で刺身として食べる、鍋で煮て食べる、その他、ハリハリ鍋や、味噌で煮込んだクジラ汁など、調理法のバリエーションも非常に多かった

特に鯨肉は米食との相性も良かった。米には味噌漬けや醤油漬けなどのしょっぱいものが合う。味噌や醤油のうまみはグルタミン酸によるものだが、そのうまみをクジラのイノシン酸は美味しく引き立てる。イノシン酸の多い鰹節が、醤油の味を引き立てるのと同じ作用である。

米を主食とし、醤油や味噌を多用する日本人の食生活の中で鯨肉はまことに相性の良い食材だった。

捕鯨技術、保存技術の進歩

鯨食が庶民にまで普及したのは、供給面の発達と、保存・運搬方法の進歩による。

正徳3(1713)年ごろに出版された『和漢三才図絵』は絵入りの百科事典だが、そこには日本列島の地図が載っていて、各地方の捕鯨地が記されている。現在の佐賀県呼子、和歌山県太地、北海道松前、長崎県五島列島などが捕鯨の中心地であった。

井原西鶴の『日本永代蔵』には、和歌山の太地にいた「クジラ突き(クジラを銛で打つ人)」の名人、太地角右衛門をモデルにした男の話が出ていて、歌舞伎にもなっている。この男は約60メートルのセミクジラをしとめて、前代未聞の大きさであると書かれている。

その後、この太地で、丈夫な麻で造られた巨大な網を使った捕鯨法が考案された。何隻もの船で沖合に、小学校の校庭ほどの大きな網を張り、クジラをここに追い詰めてから銛で突いて弱らせ、網船で引っ張ってくるという捕鯨法である。これは歴史的に見ても、世界中どこにもない、日本独特の捕鯨方法であった。

これによりクジラは逃げる事もできず、また沈んでしまうことも防げるので、捕鯨の効率が飛躍的に高まった。この捕鯨法は全国に広まっていった。

また各地で捕鯨のための組織「鯨組」が成長していった。鯨組を構成するのは、海上での捕鯨従事者、陸上での解体、加工、運搬従事者、采配する親方などを含めて中規模組織で700人程度太地では3,000人もの規模があった。当時としては、銅山などとならんで、鯨組はもっとも大きな産業組織ではなかったかと言われている。

保存技術の進歩もあった。獲れたクジラを塩漬けにすると、長期間、保存できるが、塩のために水分が抜けて、かさかさになってしまう。それを防ぐために稻わら(荒いむしろ)で巻くと、水分が保存される。これでおいしさを何ヶ月も保てるようになった。

海から取れる塩も、また稻わらも、我が国には無限にあったので、この保存方法は、まことに好適であった。

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