「いただきます」という言葉は日本人だけのもの
冒頭に述べたように、全国の捕鯨地のお寺には、たいていクジラの墓や供養塔がある。このようなクジラ供養が始まったのは、鯨組ができて発展していった1700年頃からである。
人間が生きるためとは言え、クジラを殺し、食べる事に対して、申し訳ないという気持ちがあったからであろう。どうか成仏して欲しい、という気持ちで、クジラ一頭一頭に対して、位牌をつくり、供養塔を建て、戒名をつけた。このような文化を持つ国は日本以外にはなかった。
考えてみれば、米にしろ、パンにしろ、肉や魚、野菜にしろ、人間が食べるものは、すべて生命あるものである。そういう命をいただく事によって、我々の命は成り立っている。『鯨は国を助く』の著者・小泉武夫氏は、こう指摘している。
だからこそ、食べ物に宿る命は大事に、粗末にしてはならないのだ。そこには感謝がなければいけない。日本人の「いただきます」という言葉は、あなたの命をいただかせていただきますという意味なのである。実は、この「いただきます」と同じような意味を持つ言葉は、日本以外にはどこにもない。
例えばキリスト教では食前に神に感謝するが、生き物や食べ物に対する感謝ではない。
あなたの命をいただかせて「いただきます」という言葉は日本人だけのものである。
(『鯨は国を助く』小泉武夫・著/小学館)
そしてクジラの命をいただく以上、その一部でもムダにしては申し訳ない。だからこそ、我々の先祖は、骨や歯、ヒゲ、内臓に至るまで、すべての部位を有効に活用してきたのである。
食物連鎖の中で生かしていただいている
捕鯨反対の理由の一つとして「クジラを殺すのは可哀想だ」と言う声があるが、クジラ以外の牛や豚や羊や鶏は殺しても可哀想ではない、というのは理屈が通らない。
植物しか口にしないベジタリアンがこう言うのなら、まだ分かるが、極論を言えば、植物にも命がある。すべての動植物は、食物連鎖の中で他の命をいただきながら、自らの生命を保っているのである。
我々の先祖は、自分たちもこの食物連鎖の中で生かしていただいている、という感覚を持っていた。それがクジラの墓を作り、またすべての部位を無駄なく使わせていただいてた、という行為に現れている。
忘れ去られた「いただきます」の知恵
明治以降、西洋諸国から近代的な捕鯨方法が導入された。遠洋まで出かけられる大型船で、捕鯨用の大砲や銛を備え、それまでの網捕り方式とは比較にならないほどの大量のクジラが安全確実に捕れるようになった。
我が国も、この近代捕鯨法を導入し、世界有数の捕鯨国にのし上がった。捕鯨が全世界の海洋で競って行われるようになり、各国が捕鯨数を競い合う「捕鯨オリンピック」なる言葉までマスコミで使われるようになった。
この近代化の過程で、日本人は「いただきます」の心を忘れ去ってしまったようだ。クジラへの感謝の気持ちも、その成仏を祈る心も忘れ、ちょうどアメリカの捕鯨船がクジラの脂だけとって後は捨ててしまったように、クジラを大量生産・大量消費の「資源」としてしか考えなくなったようだ。
そして多くの捕鯨国が、こうした姿勢で世界中の海洋で捕鯨競争に奔走した結果が、クジラを一時、絶滅の危機にまで追い込んだのである。
欧米流の考え方では、地上の資源はすべて人間のためにあるとして取り尽くしてしまうか、それを防ぐために聖域として一切の利用を禁ずるか、の二者択一の発想しかないようだ。これは、あまりにも単純な発想である。
クジラの命を感謝して、無駄なくいただきながら共生を図る。日本古来からの「いただきます」の知恵を今こそ思い起こすべき時ではないか。
文責:伊勢雅臣
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