ブレジンスキーの飛躍
さて、「陰謀論」によく登場するブレジンスキーさん。どうしてそういう話になったのでしょうか?
最もよく登場するのは、「三極委員会」に関連して。「三極委員会」は、よく「陰謀論」に登場するのですね。デヴィッド・ロックフェラー回顧録に、「三極委員会」がらみでブレジンスキーさんが登場しています。引用してみましょう。
わたしが創設にひと役買った組織のなかで、最も大衆のきびしい目にさらされ、注目を集めたのが三極委員会だ。テレビ伝道者、パット・ロバートソンは、三極委員会が世界政府の樹立をたくらんでいると主張し、「邪悪なものの奥底から」生じた組織だと断言している。
(『ロックフェラー回顧録 下』デイヴィッド・ロックフェラー 著/新潮社)
設立当時から「陰謀論」があったのですね。そして、ロックフェラーさんは、三極委員会とブレジンスキーさんの関係について、詳細に書いています。
当時コロンビア大学で教鞭を取っていたズビグニュー・ブレジンスキーが、その年のビルダーバーグのゲストだったので、会談のためいっしょにベルギーを向かう機上で、わたしのアイデアについて話し合った。
(同上)
この部分に続いて、デヴィッド・ロックフェラーさんは、「ビルダー会議」の運営委員会に、「日本人をメンバーに加えるよう」要請してきたが、断られ続けた事実を語っています。
「ビルダー会議」というのは、主に欧米の超エリートが集結する会議。これもしばしば「陰謀論のネタ」になっています。
ズビグニューは、この拒絶をわたしのアイデアにじゅうぶんな根拠がある証拠と見なし、目標を追求するよう勧めてきた。
(同上)
デヴィッド・ロックフェラーさん自身の言葉からわかることはなんでしょうか?
- 三極委員会は、彼が発案した
- その理由は、ビルダーバーグ会議が、日本人の参加を拒否したからである
- そして、ブレジンスキーは、ロックフェラーさんの決断を後押しした
三極委員会の前身「日米欧委員会」は、1973年に設立されました。ロックフェラーと共に「三極委員会」を立ち上げた。ここからブレジンスキーさんの快進撃が始まります。彼は、カーター大統領の時代(1977~1981年)に大統領補佐官を務めます。
彼が最も活躍したといわれるのは、1980年代末。ブレジンスキーさんは、同じくポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世、ポーランド民主化運動の指導者ワレサさんと連携。1989年の東欧民主化革命実現に大きく貢献したといわれています。
これで、祖国ポーランドは、ソ連から切り離された。そして、そのソ連は1991年末に崩壊しています。ブレジンスキーさんは、「復讐を果たした」と思ったことでしょう。
彼はその後も活躍を続け、一部では、「オバマを大統領にしたのはブレジンスキー」と言われています。