家族、友人、同僚、あるいは自分のやっている仕事、家事…。あなたはそれらについて「分かっている」と答えられますか?「分かった」と思えばそこで止まってしまいますが、「分かろう」と思い続ければ何かが変わるかもしれません。今回の無料メルマガ『人間をとことん考える(人間論)』では、著者で薬剤師の小原一将さんが「分かった」を見直すことの大切さについて記しています。
人間論 「分かる」ことの難しさ
みなさんはどれだけのことを分かっていると言えるだろうか。私は最近、この「分かる」ということが非常に難しいと思うようになった。
日々こなしている仕事であれば「分かる」と言える場合が多いかもしれない。しかしその手順が果たして最善で最適なのか、もっとより良い方法はないのだろうか。もしくはその仕事を根本的に変化させる方が良いのではないか。
いつも一緒に暮らしている人のことは「分かる」と思うかもしれないが、時間を共有すればするほど分からなくなる場合もある。今まで知らなかった一面を見てしまい、これまでの認識が覆されたことは一度や二度ではないだろう。
このように考えると「分かる」という行為はある意味でブレーキをかけているのではないかと思う。「分かる」と思った時点で思考が停止してしまうのではないだろうか。「分かる」ことは対象を自分の中で結論付けてしまい、それより先の思考を産み出さないように感じる。
「知る」ということと比較すると多少考えやすい。「知る」とは情報をインプットするだけであり、「分かる」ということはそれらの情報を参考にして自分なりの答えに辿り着かなければいけない。あの人のことを知っている、あの人のことを分かっている、この二つの印象は大きく違うだろう。
もちろん「知る」という言葉にも考えて理解して自分のものにするというニュアンスは含まれるだろうが、「分かる」という言葉にはより主観的な意味合いが込められていると私は感じる。
あるマンガのキャラクターが「分からないのに分かってもらおうとするなよ」というセリフを言っていたことが印象に残っている。私たちは相手のことがよく分かっていないのに、なぜ自分のことを分かってもらえないのかとその相手に困惑したり怒ったりする場合がある。その矛盾を見事に表した言葉であると言える。