小さな島国・ニッポンから、多数の「世界一」が誕生する歴史的背景

 

無数の多くの代々の国民が、力を合わせて続けてきた

御遷宮には1万本以上のヒノキが使われるが、それらは木曽地方などの神宮備林で育てられる。樹齢2、300年の用材を大量に育てるための人々がおり、用材を切り出す際には神事が行われる。

切り出された用材は直径1メートル近く、長さ数メートルのものもある。それらを奉曳車に乗せて、長さ100~500mの綱を200~5,000名の曳き手が掛け声に従って引く「御木曳(おきびき)」という行事もある。

平成18(2006)年から翌年にかけて行われた第62回御遷宮の御木曳行事には一日神領民という希望者が約7万7,000人も参加した。筆者は沿道でその行事を見学したが、日本全国から集まった人々が、地域ごとに揃いの法被(はっぴ)を着て、いかにも楽しそうに掛け声に合わせて綱を引っ張っていた。

この第62回目御遷宮の総費用は550億円という。神宮を参拝した人々のお賽銭や、篤志家・企業などからの寄付、さらには全国の神社での神宮大麻(おふだ)の販売などによってまかなわれている。いわば国民の多くが御遷宮を支えているとも言えるのである。

このような大規模な御遷宮が過去1,300年以上62回も続けられてきたという事は驚くべき事実である。御遷宮は「続いてきた」のではない。我が先人たち、それも無数の代々の国民が力を合わせて「続けてきた」のである。その努力こそ世界唯一というべきであろう。

のべ260万余人が参加した奈良の大仏建立

国民参加という点では、天平勝宝4(752)年に完成した世界最大のブロンズ像・奈良の大仏も同様である。大仏建立を志された聖武天皇は詔(みことのり)を出されて、「生きとし生けるものがことごとく栄えることを望む」と語られた。しかし、単に国家権力をもって人民を使役したのでは、その志は果たせない。

ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしり(悪くいうこと)を生じて、かえって罪に陥ることを恐れる。…国・郡などの役人はこの造仏のために、人民の暮らしを侵(おか)し、乱したり、無理に物資を取りたてたりすることがあってはならぬ。
(同上)

この詔は現実の政策によって実行された。造仏に従事した木工、仏師、銅工、鉄工などの技術者ばかりでなく、人夫、雑役夫などの雇人にも、賃金と食米が支給された。現場の重労働に従事する工人には、一日約8合の玄米が炊かれ、塩・味噌・醤油・酢・海藻・漬物・野菜・木の実等が副食として出された。

工事に従事した延べ人数は、金知識(鋳造関係の技術者)が37万2,075人、役夫(えきふ)が51万4,902人、材木知識が5万1,590人、役夫が166万5,071人と合計260万余人。当時の日本の推定人口は約500万人だから、そのかなりの割合の国民が参加したわけである。

事業に参加する人々には賃金や食事を支給するばかりでは無い。聖武天皇は一人ひとりがこの事業の趣旨をよく理解し、それに主体的に参加することを期待された。詔にはこうも言われている。

もし更に人の一枝の草、一把(ひとにぎり)の土を持って、像を助け造らんことを情願(ねがう)あらば、恣(まま)にこれを許せ。

 

もし人民が寄進したいというのであれば、どんなにわずかの寄進でもよろこんで受けよう。わたしは国民とともにこの大事業をなしとげたいからだ。
『日本の歴史文庫3 奈良の都』虎尾俊哉・著/講談社

大仏の建立に参加した一般人民は国家権力者に使役された奴隷だったと考えるのは過ちである。またこれらの人々がすべて賃金や食事目当てだった、と考えるのも表面的に見える。ちょうど現代の御遷宮に多くの国民がボランティア参加しているように、当時の人々は聖武天皇が国民全体の幸福を祈って発願された事業に参加できる誇りと喜びを感じていたのではないか。

「百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて」

多くの国民が喜んで国家的巨大事業に参画するというのは、仁徳天皇陵の築造においても見られたようだ。

この「前方後円墳」と呼ばれる古墳は、全長が486メートル、円の部分は高さ34メートルもある。取り囲む二重の濠まで含めた総面積は34万5,480平方メートルであり、秦の始皇帝の底面積11万5,600平方メートルの三倍、エジプト最大のクフ王の大ピラミッドの底面積5万2,900平方メートルの六倍以上だ。大きさだけでなく、その全体の形態は中国にも朝鮮にも前例のない美しい形態である。
(『日本史の中の世界一』田中英道・編集/育鵬社)

ある試算によれば、これだけの土を更地に盛り上げるためには10トンのダンプカーで25万台分の運搬が必要であり、これを全て人力で行うためには延べ680万人が必要という。

仁徳天皇は「民のかまど」の逸話で日本書紀などに聖帝として描かれている。高台から国を望まれて、かまどから煙が見えないことから、民が不作で窮乏しているのであろうと考えられ、税を免じた。宮殿の茅葦屋根が破れても修理させず、風雨で衣服が濡れる有様だった。6年の後、ようやく天皇が宮殿修理の許可を出されると…

百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて、材料を運び、簣(こ)を背負って、昼夜を問わずに、力を尽くして競いつくった。従って、あまり日数がかからないで、宮室がことごとく完成した。そこでいまに至るまで、聖帝とたたえ申し上げるのである。
(同上)

仁徳天皇が崩御された際も、多くの民が天皇の聖徳を偲んで、このような形で力を合わせて陵を造営したものと想像しうる。

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