国民による国民のための詩集
多くの国民が参加して偉業を成し遂げるというのは、巨大建造物に限らない。世界最古、最大の選詩集『万葉集』もその一つである。4,516首という規模で世界最大であり、かつ、7~8世紀の歌を集めている。
規模や古さだけではなく、万葉集が特徴的なのは天皇から庶民ままでほとんどあらゆる階層を含んでいることである。
アメリカの文学史家、ドナルド・キーン氏は…天皇の国見の歌から、恋の歌、生活の歌まで、その題材の豊富なことは、詩集として世界でも稀なことであると述べている。
作者も宮宮廷の詩人だけでなく、防人(さきもり)の歌や東人の歌、農民、遊行女婦、乞食まで多様な階層の歌が選ばれているのである。いかに階層に対する偏見がないか、また平等な世界であったかがよくわかる。
(同上)
西洋や中国の詩集が専門歌人の作品を集めているのに対し、万葉集は、多くの国民がそれぞれの思いを詠んだ詩歌を集めた、まさに国民による国民のための詩集であった。この和歌の伝統は、現代の日本でも皇室を中心に中学生から老人まで数万の短歌を集める「歌会始め」に連なっている。
国を挙げて取り組んだ教育水準の向上
幅広い国民参加による世界レベルの偉業達成というパターンは近現代でも続いている。江戸時代の教育水準の高さはその一つである。
トロイの遺跡発掘で有名なドイツの考古学者シュリーマン(1822~1890)は、トロイ発掘の6年前の1865年に旅行者として日本を訪れ、1カ月の間、江戸、横浜などに滞在しているが、「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。
中国をも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と旅行記のなかで書いている。
(同上)
この世界一の教育水準は、日本各地に無数に設置された藩校、私塾、寺子屋によって達成された。藩校の最初は、元禄10(1697)年に米沢藩が設立した興譲館だが、その後、全国に広がり、幕末までに約260のすべての藩が、規模や形態の差はあれ、藩校を設置している。
私塾は寛文2(1662)年に、伊藤仁斎が京都に古義堂を開設して以来、様々な専門分野で広がり、幕末には全国で1,500もあったといわれている。
寺子屋は農民や町民の子供たちにお坊さんや神主、町のご隠居や武士などが教えていた。幕末には全国で1万から1万5,000もあった。現代日本の小学校数約2万に匹敵する規模の初等教育が行われていたことになる。
藩校を運営した各藩主から、私塾を経営した各分野の専門学者、さらには寺子屋で教えるご隠居さんまで、国民の各層がそれぞれに人づくりの志を持って取り組んだ結果が、世界一の教育水準なのである。