戦場から故郷への手紙ー「娘を立派に」激戦の比島沖で散った27歳の父

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今年は終戦70年の節目。そこで今回は、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐために、国や家族のために戦い命を落とした兵士たちが、大事な人へ宛てた手紙を『≪≪<戦場から故郷への便り>≫≫』よりご紹介します。戦場で戦いながらも大事な人を想い、気づかう兵士たちの優しさに触れてみてください。

~戦没兵士の手紙集~その24

其の後は元気で過ごしておられますか。崇子も元気ですか。私も相変わらず元気にて御奉公いたしております故何卒ご安心下さい。

 

これも皆神仏の御加護の賜と存じ深く感謝いたしております。

 

そしてまた、お前やご両親が日夜、私のため神仏に祈っていてくれることを思えば、この上はいよいよ一層立派な軍人としての本分をつくすよう固く心に誓っております。

 

何卒私の事は決して心配せず崇子を立派に育ててくれるよう。

 

寒さも加わることと思います、風邪を引かぬよう、またお前もくれぐれも身体に注意してくれるように。

 

お父様、お母様によろしく伝えておくれ。

 

三輪、亀井、泉谷様とか近所の方々にくれぐれもよろしく伝えておくれ。

 

昭和十九年二月一日   絹子殿

 
昭和19年12月21日 比島沖にて戦死 27歳 海軍機関兵長
 (この手紙の10か月後に亡くなった)

わが子崇子を立派に育ててくれと妻に託す。敵国と生死を賭けて闘い、四六時中思うのは崇子や妻そして父母のことであろう。私のことは心配しなくていいと手紙に書き記す。

戦況は日増しに日本軍に不利になって行く。フィリピン周辺の制海権、制空権を賭けて連日戦った。

孤立無援となった日本軍は弾薬・兵糧共に欠乏し、日本兵として敵国と十分戦うことなく病気と栄養失調で戦死していった。

フィリピンは日本の夏以上だろう。鉄砲を打つ前に、泥水を飲み命を落とす兵隊が如何に多かったか。政府は一兵卒から上官までの苦しみを国民に正確に伝える作業をすべきだ。

●昭和19年12月の戦況
12/7 東海地方に強震と大津波998名死亡
12/- 防空壕強制建造命令 竹やり訓練実施 同期の桜流行する

 image by:Shutterstock

 『≪≪<戦場から故郷への便り>≫≫ 』

戦没兵士の手紙集の連載です。雪凍る北満の地で、暑熱のジャングルや孤島で、傷つき倒れ、あるいは飢え、また太平洋の底深く沈められ、はては沖縄で武器も持たず丸裸で殲滅されていった人たち。 戦没兵士の思いを戦後70年の今に伝えます。
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