ロス五輪金メダリスト山下が柔道を通して取り戻したい日本の誇り

 

「最強の選手」ではなく「最高の選手」を育成しよう

平成8(1996)年のアトランタ五輪から平成12(2000)年のシドニー五輪まで、山下は8年間、全日本柔道チームの監督を務めた。そこでは嘉納治五郎の提唱した精神に則り、「最強の選手ではなく、「最高の選手を育成しようと心がけた。

たとえば、アトランタ、シドニー、さらにアテネと60キロ級で柔道史上初の金メダル三連覇を成し遂げた野村忠宏。天才肌というイメージで伝えられることが多いが、金メダルを取った翌日、心身ともに疲れ切ってるにもかかわらず、これから試合に臨む選手の付き人を自ら買って出た

その選手は試合には敗れてしまったが、彼の柔道着を慈しむようにたたんでいた野村選手の姿が頭に焼き付いて離れない、と山下は言う。

シドニー81キロ級の金メダリスト瀧本誠は、当時はまだ珍しかった茶髪で「柔道界の異端児」とも言われていたが、全日本柔道チームの合宿中、まだ誰も起き出していない早朝、乱雑に脱ぎ散らかされていたトイレのスリッパを丁寧に揃えていた

その場面をたまたま見かけた山下が後で礼を言うと、照れくさそうな顔を浮かべてぶっきらぼうに立ち去っていったという。

シドニー100キロ超級の決勝戦で「世紀の大誤審により銀メダルに終わった篠原信一。オリンピック後、国際柔道連盟理事会がビデオ分析により、誤審と認めたが、規定により、試合場から審判が離れた後だったので、判定は覆らなかった。しかし、篠原は「自分が弱いから負けた」としか言明せず、潔く引き下がった

これらの選手たちは、まさに「最高の選手」たちであった。

「柔道は本当に人づくりをしていると言えるのか?」

こうした立派な柔道家が育っている一方で、当時の日本柔道界全体のマナーやモラルは末期的症状を呈していた。

平成13(2001)年夏、山下は郷里・熊本県で開かれたインターハイ(全国高等学校総合体育大会)を視察した。郷里の先輩が柔道競技の実行委員長を務めていたが、山下の顔を見て、目に涙を浮かべ、声を震わせながら訴えた。

「なあ泰裕、柔道は人づくりのスポーツなのか? 本当に人づくりをしていると言えるのか?」

先輩のただならぬ表情に、「何があったんですか?」と尋ねると、インターハイの会場を訪れる柔道関係者は選手、コーチ、監督、役員から応援の観客に至るまで、平然とした顔でルールを破るという。

試合会場や控え室の汚れ方もひどかったそうだ。数日前に同じ会場を使用したハンドボールでは、そんな事はなかったという。また地元ボランティアの人々からも、たった一日だけで「柔道は何という団体なんだ二度と来てほしくない」と不評を買っていた。

山下は、全日本柔道連盟の幹部に訴えた。「日本の柔道界は、こんなありさまでいいのでしょうか。この現状は柔道の創始者嘉納治五郎師範が目指したものとは違うのではないでしょうか」

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