美の境地。権力者に愛された茶人・小堀遠州「綺麗さび」の世界

 

遠州が綺麗さびを確立するに至った経緯

遠州は織部の弟子だったのでまずは織部の時代からの移り変わりを見ていきましょう。

織部は秀吉の家臣で若い時から千利休に茶を学びました。織部は利休の死後、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の茶道の師として仕えます。織部の茶の湯の特徴は既成の権威を認めず自由で創造性に富んでいました。これは当時流行していた歌舞伎の精神にも影響されているとも言われています。歌舞伎の語源である「かぶく」は傾くことであり、まともならざる者の意です。そのような異風なものへの傾倒が織部の茶にも反映されていたと言ってもいいのかもしれません。

織部の茶碗を見るとどれもみな大胆に形が曲がっていて、アンバランスなものが多いのが特徴です。そのような一見変わり者のような織部は大阪夏の陣の後に秀忠に切腹を命じられてしまいます。師匠の千利休も茶頭として仕えた秀吉に切腹を命じられています。その意味では弟子の織部も同じような最期を迎えることになってしまいました。

後を継いだのが織部の弟子・小堀遠州です。遠州は豊臣家の家臣でしたが、途中から徳川幕府の大名となります。遠州は織部の茶の湯を受け継いで新しい時代にふさわしいものを築き上げていきました。

織部の大胆なアンバランスな美から安定した世の中にふさわしい優美で均整のとれた造詣を極めようとしました。これが、「綺麗さび」といわれる茶の湯の境地です。従来の「わび・さび」の精神に、美しさ、明るさ、豊かさを加えたのです。それにより誰からも美しいと言われる普遍的で客観性のある美の境地を作り上げたのです。

綺麗さびでは、これまでとは違い暗い茶室ではなく、光を取り入れた明るい茶室で客人をもてなします。そのため、土色で荒々しい器から白をメインとした綺麗な茶器を使うようになりました。この頃から扱われる茶器も見た目の美しいものへと変わっていきます。備前焼のような土色で荒々しいものから、有田焼瀬戸焼など色鮮やかなものへと変わっていきました。

遠州は、作庭家としてもとても有名です。二条城の二の丸御殿、仙洞御所、桂離宮、大徳寺本坊、孤篷庵、南禅寺本坊、金地院など名だたる庭園を手掛けています。城、宮中、寺院の庭園を作庭するということは、将軍、朝廷、僧侶など幅広い層の権力者と深い信頼関係を築いていたことが伺われます。

茶道は茶器やその道具にはじまり、部屋のしつらえ花瓶の花などあらゆるものに関わりを持っています。そのため豊かな教養が自然と備わる環境でもあるのでしょう。当時は現在のサロンのような茶室という場所で権力者たちが密会をしていたと伝えられています。そのような場をホストとして取り仕切る茶人ともなれば、幅広い層の権力者からの信頼を集めることは当然とも言えるでしょう。大名や将軍が生きた時代を想像しながら茶室や茶器などに触れることでまた違う何かが見えてくるのではないでしょうか。

いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

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【著者】 英学(はなぶさ がく) 【発行周期】 ほぼ週刊

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