つまり、極端な言い方をすれば、
日本では、サラリーマン経営者が、市場調査と長時間の会議で作り上げた「誰が見ても作るべきエビデンス」の揃った製品の仕様書を子会社に丸投げして、それを劣悪な労働環境に置かれたコーダーたちがプログラムに落とし込むという形でソフトウェアが作られている。
米国では、プロスポーツ・チームのアスリートのような待遇のソフトウェア・エンジニアたちが、経営者の(世の中が何を必要としているか、会社はどこで勝負すべきかなどの)メッセージに耳を傾け、(仕様書などに頼らず)作り出したソフトウェアの中から、「ダイヤの原石」と呼べるものを経営者が見出して製品化するという形でソフトウェアが作られている
のです。
さらにこの背景には、なくなると言われながら、根強く残っている終身雇用・年功序列・新卒一括採用制、企業の新陳代謝を阻害する政府の大企業優遇政策、貧弱なベンチャー支援環境があり、この状況からの脱却を難しくしています。
そうは言っても、日本でもベンチャー企業やゲーム会社には、米国型の意思決定プロセスの会社もあるし、逆に米国にも IBMやAccenture のような硬い会社もあるので、100%このまま当てはまる訳ではありませんが、冒頭に紹介した論文の「社会的・文化的な違い」を分かりやすく書けば、こういう話になります。
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