中学生のドラマーに往復ビンタ。日野皓正氏の「制裁」が壊したもの

 

これに加えて、ジャズ音楽におけるドラムソロの位置づけという問題も、背景にある問題として無視できません。ジャズにおけるドラムスというのは非常に重要なパートです。リズムを刻み、そこにスイングなどのグルーヴ感を乗せていくのにはドラムスの存在感は不可欠だからです。

ですが、ジャズにおいてリズムの主導権がドラムスにあるのかというと、それは違います。優秀な演奏家は、サックスやペットにしてもピアノにしても、あるいはギターや、勿論ベースにしても、それぞれのリズム感があり、また楽曲の解釈があり、またアドリブでの演奏表現があり、ですから局面に応じたグルーヴ感を表現するし、また表現したいと思ってプレイしているわけです。

ですが、トリオにしても、この場合のビッグバンドにおいてもドラムスというのは、極めてリズム性の強い楽器ですから、どうしてもドラムスの叩き方が楽曲のリズムを支配する傾向があります。ですから、基本的にはピアノがリードするグループの場合は、ピアノの持っているリズムをドラムスは忠実に追うし、ペットがリードする場合はペットのリズム感をドラムスは尊重して合わせるわけです。

では、ドラムスは常に受け身であり、伴奏者であるのかというと、決してそうではなく、やはり非常に説得力のあるリズム楽器として、一国一城の主という感覚の独立心がそこにはあるわけです。ドラムのソロの部分というのは、ある意味では、そのドラムスのプライドを見せる部分であり、だからこそ歴史的には、その部分に白熱の名演奏が多いわけです。

このドラムスのソロですが、例えばフュージョン系のナンバーで、かなりイーブンな感じで流れてきた曲の場合、最初はその流れを受けつつも、途中からかなり激しく揺らしたり詰めたりしながら相当に刺激的に展開する場合もあるわけです。また、それが許されてもいます。頑固なフュージョン系の客などは「うるさい」という反発を示すこともありますが、プレイヤーの方は分かっていてドラムスの挑発を「どう受けるか」計算を始めるわけです。

その辺を「目配せ」したりしながら、やがてドラムスがアドリブ的な乱れ打ちから、その曲の元のリズムに戻しつつメロディーのカムバックを引き寄せる、そしてピアノなりペット、あるいはサックスなどとベースやギターが合奏に戻ってきてアンサンブルになる、その「過渡期」と言いますか「つなぎ方」の呼吸感というのは、音楽の「実においしい部分」であるわけです。

また、最初は相当にメロディー優先でイーブンな感じで来た「おなじみの楽曲」が、間にドラムスの挑発的なソロを挟むことで、合奏に戻った後も、不思議な「熱っし方」が音楽に入ってきて、味わいが深まるというようなマジックも起きることがあります。これもまた音楽の「おいしい部分」です。

クラシックのコンチェルトでは、独奏者のソロパートであるカデンツァがやたらに濃厚な味になりがちな分、それが終わってオケの伴奏で最初の主題が戻る辺りの音楽はどうしても弛緩してしまいます。その「ゆるさ」が醸し出す残念な形式主義とは違って、この点に関しては、明らかにジャズの方が音楽的に高度であるように思います。

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