どん底からの大逆転。翼の折れた「はとバス」が起こす奇跡の飛翔

 

バブル崩壊後、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などの影響もあり乗客が激減し、経営不振に陥った「はとバス」。そんな時、社長として抜擢されたのが元都職員であった宮端清次さんでした。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、新米社長であった宮端さんと社員の心温まる交流、さらに本物の「おもてなし」を追求する全社を挙げての奮闘の様子を紹介しています。

はとバス社員の「おもてなし」

はとバスと言えば、東京観光の代名詞だが、平成10(1998)年までの4年間、赤字続きで借入金は70億円にまで膨らんでいた。年収120億円の半分以上の借金である。バブル崩壊に、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件と相次ぐ事件に乗客が激減していた。

その年の6月に経営を建て直すべく社長に任命されたのが、東京都庁に長く勤務していた宮端清次さん(当時63歳)だった。

社長に就任した9月の株主総会では、「来年6月の決算時に黒字にできなければ、責任をとって社長を辞める」と啖呵を切ったものの、63歳の自分は辞めれば済むが、社員たちを路頭に迷わすわけにはいかない。

まずは社長3割、役員2割、社員1割という賃金カットを決めた。危機感を抱いていた組合も「やむをえない」と受け入れてくれたが、一人の運転士からはこんな抗議もあった。

私たち従業員は何十年も一所懸命働いてきたが、赤字になったからと言って、我々にツケを回して、賃金カットを押しつけてくるとは何事ですか。あなたの経営者としての責任はどうなっているのですか。
(『はとバスをV字回復させた社長の習慣』 宮端清次 著/祥伝社)

「社長、心配しなくても大丈夫だよ」

宮端さんは「申し訳ない。心からお詫びする」と頭を下げ、「皆さんをもう二度とこんなに辛く、悲しい気持ちにさせないと約束する。だから、今回ははとバスのために一緒に頑張ってくれませんか」とお願いした。

その場はなんとか収まったものの、宮端さんは自分の経営者としての自覚の甘さに気づかされた。社員の数は700人、その後ろに1,500人の家族がいる。どうやったら、合計2,200人の人々が安心して暮らしていけるように、はとバスを建て直せるのか。

そんなある日のこと。私は考え事をしながら社員食堂に向かいました。ポケットに片手をつっこんでうつむき加減に歩く姿が、思いつめているように見えたのでしょうか。ある運転士に肩を叩かれました。驚いて振り向くと、

 

「社長、心配しなくても大丈夫だよ。俺たちが頑張って会社を建て直すから」

 

と言うではありませんか。うれしく、思わず目頭が熱くなりました。
(同上)

はとバスのV字回復は、社員のこういう気持ちが結実した結果だろう。翌年6月の決算では、見事に黒字回復を果たす。

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