台湾では今、古き良き「日本統治時代の建物」が観光地化されている

 

もう一つ、日本統治時代のものをリノベーションして観光地化したものとして取り上げたい場所は花蓮です。花蓮は、1904年、賀田金三郎によって台湾で初めての日本人移民村「賀田村」ができた場所です。

賀田金三郎は山口県萩市に生まれ、大倉喜八郎の大倉組で頭角を表し、日清戦争後の台湾割譲により大倉組の台湾総支配人に就任しました。

その後、賀田金三郎は大倉組を辞職して賀田組を設立、マラリアが流行し、蕃人が現れる危険な地域であったうえに、不毛の地であった東部台湾において、樟脳製造や製糖、畜産業、運輸業などを興し、あらゆる面で近代化を図り、「東部開拓の父」とまで言われるようになった、台湾の近代化に寄与した功労者です。民政長官の後藤新平とは肝胆相照らす仲だったといいます。まさに日本人移民の先陣として、台湾に尽くした人物です。現在でも花蓮には開拓記念碑が残されています。

賀田が花蓮に残したものは少なくありませんでした。その中には、製糖工場、酒工場、神社などがあり、今でもたくさんのものが保存されています。かつての製糖工場の建物は「花蓮糖廠」として残っていますが、工場としては機能していません。アイスクリームが有名な観光地として、観光客を楽しませてくれています。工員の宿舎だった建物は、民宿として宿泊することもできます。

花蓮糖廠

5 花蓮糖廠日本建築群

image by: WikimediaCommons(Fcuk1203)

花蓮観光糖廠

また、日本時代の酒工場跡地は、レストランや雑貨ショップなどが入る文化複合施設にリノベーションされています。中ではスペイン料理も提供しており、天井が高く仕切りのない開けた空間は、とても新鮮で、開放感溢れる多くの観光客が訪れるスポットになっています。

 

恆好

このように、日本統治時代の建物は、現代風の観光スポットに次々と生まれ変っています。それらの中には、台湾文化や現代アートの発信基地になっているものも少なくありません。

台湾の名所古跡の多くが日本時代の建築物です。オランダ人時代の紅毛城(安平古堡)や赤嵌楼といった旧跡なども残っていますが、その他の建造物はレンガ造りの寺廟以外は、たいてい竹や草を土で固めた住宅のため耐久年数が短いのです。

西洋は石の文化と言われますが、古代ギリシャや古代ローマの建築が象徴的です。日本は木の文化とも言われますが、中国大陸の土の文化とも異なります。

明治維新以後、日本は木から石へと「文明開化」を進めてきたとともに、日本国内だけでなく、内地の延長として台湾や朝鮮にも石の文化が広がり、学校から政府官公庁に至るまで、近代的な建物が各地でつくられました。もちろんそれは満洲でも例外ではありませんでした。現在、台湾朝鮮満洲各地で残されている古跡は日本時代のものがほとんどであるというのが現実です。それが東アジアの特徴でもあります。

台湾の日本時代の近代建築としては、よく知られているように、台北の総統府は日本時代の台湾総督府ですし、有名な問屋街である迪化街の建築物もそうです。

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