わたし自身の考え方は僧侶の大來さんの主張に近い。「いただきます」は、生命を殺して食べるという行為を自覚して居ずまいを正したり、食べものが手にはいるということ、しかもおいしく食べられるということについて感謝したりするために使える便利な儀式であり、そうやって使えば世界一コンパクトな祈りにできる、素晴らしい習慣だと個人的には思う。
「祈り」にはいろいろな力がある。本当にいろいろある。
真摯な祈りにはともかく確実に、人の意識と行動を変える力がある。
でも、日本には意外と祈りの効用を知らない人が多いと思う。神社仏閣が無数にあるのに、生活の中に祈りの習慣を持っている人はとても少ないし、「宗教っぽい」行為というだけで眉をひそめられるのが、ごく一般的な感覚ではないかと思う。
日本は明治から昭和の短期間に国家宗教を作り上げて、敗戦でそれを喪失した国だ。
日本の人の宗教に対する嫌悪感にちかい警戒心には、日露戦争から第二次大戦敗戦までの、爆進して玉砕した神国日本時代の記憶が少なからず関係しているのではないかと、私は思っている。
「いただきます」「ごちそうさま」が、その国家宗教の喪失と前後して全国の習慣になったということは、本当に興味深いと思う。
「いただきます」にはコンパクトな祈りになるパワーがある習慣だと思うけど、でももちろん、祈りというものは人に押し付けたりするべきたぐいのものではない。
篠賀さんの本には、移転先の地域の学校で、給食の時に合掌をさせられたのを宗教行為の強制だとして訴えた親子のエピソードも紹介されていた。
学校で合掌するように強制したりするのは、確かに止めたほうがいいと思う。祈りも懺悔も感謝も、無理やりやらされても何の役にも立たない。
祈りが意味を持つのは、祈る人が心の底からその必要を感じたときだけだからだ。祈りの作法と必要性が統一されていた社会は、もう過去のものになってしまった。
「いただきます」「ごちそうさま」は、神様の存在があやふやな日本という国で、きっと生活の中の何かの必要を果たしている。
それは人によって違うのだと思う。祈りなのかもしれないし、食べるという行為の落ち着かなさを緩和する合図なのかもしれない。
【TOMOZO】yuzuwords11@gmail.com
米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。
マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。
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