国権か民権か。衆院総選挙前に改めて考える「リベラル」の定義

 

旧民主党のリベラル観の基本

さて、途中を飛ばして結論を急ぎたいのだが、96年に結成された旧民主党は、この「下からの民主主義ということを基調に据えていた。

同党の結党宣言は(不肖私が起草し鳩山・菅両氏が若干文言を加えて発表されたものだが)その第1節「社会構造の100年目の大転換」でこう述べていた。

明治国家以来の、欧米に追いつき追いこせという単線的な目標に人々を駆り立ててきた、官僚主導による「強制と保護の上からの民主主義」と、そのための中央集権・垂直統合型の「国家中心社会」システムは、すでに歴史的役割を終えた。それに代わって、市民主体による「自立と共生の下からの民主主義」と、そのための多極分散・水平協働型の「市民中心社会」を築き上げなければならない。いままでの100年間が終わったにもかかわらず、次の100年間はまだ始まっていない。そこに、政治、社会、経済、外交のすべてがゆきづまって出口を見いだせないかのような閉塞感の根源がある。

3年間の連立時代の経験をつうじてすでに明らかなようにこの「100年目の大転換」を成し遂げる力は、過去の官僚依存の利権政治や自主性を欠いた冷戦思考を引きずった既成政党とその亜流からは生まれてこない。いま必要なことは、すでに人口の7割を超えた戦後世代を中心とする市民のもつ創造的なエネルギーを思い切って解き放ち、その問題意識や関心に応じて地域・全国・世界の各レベルの政策決定に参画しながら実行を監視し保障していくような、地球市民的な意識と行動のスタイルをひろげていくことである。

政治の対象としての「国民」は、何年かに一度の選挙で投票するだけだった。しかし、政治の主体としての「市民」は、自分たちがよりよく生きるために、そして子どもたちに少しでもましな未来をのこすために、自ら情報を求め、知恵を働かせ、別の選択肢を提唱し、いくばくかの労力とお金をさいてその実現のために行動し、公共的な価値の創造に携わるのであって、投票はその行動のごく一部でしかない。私たちがつくろうとする新しい結集は、そのような行動する市民に知的・政策的イニシアティブを提供し、合意の形成と立法化を助け、行動の先頭に立つような、市民の日常的な生活用具の1つである……。

官僚主導、強制と保護の上からの民主主義、中央集権・垂直統合型、国家中心社会──

市民主体、自立と共生の下からの民主主義、多極分散・水平協働型、市民中心社会──

という、文字数まできちんと合わせた、対照的なコピーとなっているのにお気づきと思う。

ここが実は旧民主党結成の「肝」で、それは要するに、遡れば国権か民権かということでそれを我々はリベラルの定義と考えてきたのである。

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