童謡「ずいずいずっころばし」と徳川将軍家とのただならぬ関係

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お茶が大好きで、宇治から江戸へ茶葉を取り寄せ愛飲していたという徳川家康。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英学(はなぶさ がく)さんが、家康ゆかりの「お茶壺道中」とそこから生まれたと言われる童謡について紹介しています。

御茶壺道中

江戸時代、政治の中心が京都から江戸に移りました。駿府静岡出身だったからでしょうか、徳川家康はお茶が好きだったようです(もっばら静岡がお茶の名産地になったのは明治以降のようですが)。家康は宇治から江戸へ茶葉を取り寄せ愛飲したことが伝えられています。

その後二代将軍秀忠や三代将軍家光も宇治茶を好み、徳川将軍家にも愛好されたそうです。家光は寛永4(1627)年、幕府が朝廷に献上する茶葉と、将軍家で飲む用の茶葉を宇治の御茶師たちに作らせるよう命じました。

それ以降幕末まで、毎年新茶の時期に宇治から江戸へ高級な茶葉が運ばれるようになったのです。1633年に制度化され、将軍家の権威を示す儀式として毎年行われるようになりました。これを「御茶壺道中おちゃつぼどうちゅう)」といいます。

毎年4月下旬か5月上旬になると、幕府は宇治から茶葉の生育状況の報告を受けます。状況の報告を受けると、宇治採茶使)と呼ばれる幕府の役人が茶壺ともに江戸を出発します。多い時で100個以上あった茶壺を交代制で毎年運びました。茶道頭や茶道衆(茶坊主)、警備の役人なども含めると約1,000人の大行列をなして江戸城に向かったと伝えられています。御茶壺道中に含まれる幕府の役人の地位は御三家クラスの大名だったとか。

参勤交代の途中で御茶壺道中と鉢合わせとなった大名がわざわざ馬や籠から降りて下座拝礼をした程だったそうです。御茶壺道中を見つけると脇道にそれ、行列を避けた者も少なくなかったといわれています。

京都町奉行所は庶民に向けて「御茶壺通行の節は、被り物などを取って下座拝礼」などと厳しい御触書を出していたようです。また街道沿いに住む庶民は道の掃除が命じられたりもしていたといいます。

茶詰めは採茶使(師)が宇治に到着してから1週間以上してから茶道頭が立ち会い行われました。茶詰めが完了すると茶壺は封印され、その取り扱いには細心の注意が払われました。

1633年に制度化された御茶壺道中は江戸時代が終わる1867年まで毎年続きました。こうして230年以上も続けられた歴史は京都に今も残されています。

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