日本カーオブザイヤーはなぜ、単なる「お祭り」に成り下がったか

カーオブザイヤー
 

11月8日に発表された、2017-2018日本カーオブザイヤー(COTY)最終選考会に進む「10ベストカー」。この10台の中から、12月11日に日本COTYが決定されることとなりました。メルマガ『クルマの心』の著者で自動車評論家の伏木悦郎さんは、かつて自身も10年以上に渡って選考委員を務めた日本COTYのノミネート車を巡る状況が、先日掲載の記事「東京モーターショーはこのままだとヤバい。プロが感じた『限界』」でも指摘した同ショーの好ましからざる現実と重なる、と厳しい意見を記しています。

クルマの完成度が高まった分、イヤーカー選びは難しくなっている

2017-2018COTYへのノミネートは、先日の東京モーターショー(TMS)の現実とも重なる。日本メーカーの夢も希望も感じられない出展車の数と質に、ジャーマンスリーを中心に数社の欧州メーカーが大した見せ物を用意することなくディーラーショールームのようなブースで存在感をアピールする虚しさ。

その兆候は、これまでのCOTYの歴史を振り返れば容易に理解できる。過去37回の結果はここ(日本カー・オブ・ザ・イヤー記録)で見ることができるので参照願いたい。

赤いFFファミリアに始まる1980年代のCOTYは、永遠の成長が信じられた時代の記憶が鮮やかに蘇る。ハイテク/デジタルのソアラから西洋にもっとも近いことを感じさせた広島産のカペラ(当時はまだ東洋工業を名乗った)、ホンダ大躍進の先駆けとなった「ワンダー」シビックに当時は何でもやったトヨタを象徴するMR2。リトラクタブルヘッドライトのセダンにチャレンジしたホンダアコードからビスカスカップリングの日産パルサー軍団。ハイテク競争に勝利した三菱渾身のギャランVR-4にFRとドリフトとデートカーが話題の日産シルビアときて、トヨタがクラウンの上に位置するセルシオを出したところでバブルが弾けた

1980年代の熱は1990年代初頭の三菱ディアマンテ、ホンダ「平成サンバ」シビック、2代目日産マーチまで勢いが続いたが、アコードがUSモデルとの共用になってからの日本車は時の流れとともに軸足が国内から海外市場に移って行った。

1987年から選考委員を委嘱されたことで時代の移ろいがより一層強く感じられるようになった。私の1987-1988COTYからの10ポイント配点モデルは、セドリック/グロリア、シルビア、ユーノスロードスター、NSX、シビック、マーチ、アコード、RAV4、シビック、ロゴ、プリウス、アルテッツァ、S2000、シビック、フィット、アコード、(2003-2004は選考委員を委嘱されず)、レジェンド、マツダロードスターだったと記憶する。

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