偉大なる「闘将」星野仙一が、楽天優勝で被災地にもたらしたもの

 

球界の巨星墜つ。「燃える男」「闘将」と呼ばれた星野仙一氏が先日、急死しました。常勝巨人に対し、選手として、また監督として立ち向かう姿勢に憧れた方は少なくないのではないでしょうか。幼少期から星野氏を心の師と仰いだ、メルマガ 『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者でジャーナリストの引地達也さんは、星野氏の死を悼みつつ、東日本大震災後の被災地を勇気づけた星野氏の功績を振り返っています。

幼い頃から居続けた「星野仙一」という存在

燃える男」「闘将」として知られた元プロ野球監督の星野仙一氏が突然逝った。私にとって、それは特別なことであった。仙台市市内の小学校低学年の頃、初めて被った野球帽子が中日ドラゴンズの青地に「CD」マークだったことから、無類のドラゴンズ好きとなり、当時、黒地にオレンジマークの巨人の帽子が被る子供が大半だったクラスの子供にドランゴンズの良さを説きほとんどの子供の帽子を青に変えたのも、巨人軍に立ち向かう星野流を自分なりに体現していたのだと思う。当時のドラゴンズファンはエースである星野氏を好きになるのは当然で、「仙一」の名前は自分の住む仙台と関係があるのだと信じ切っていた。

当時、少年野球に明け暮れていた私は、格好良いとはいえない星野氏の投球フォームを真似し、夕方からは雑音の中にやっとのことで聞こえる「東海ラジオ」のナイター中継のドラゴンズ戦に聞き入りスコアブックをつけ、初めて買ったEPレコードは、星野氏が現役時代に出したムード歌謡曲「街の灯がゆれる」だった。

青いユニフォームが大きなものに立ち向かう姿に憧れ、それに近づきたい一心で、私はドラゴンズの本拠地、名古屋を聖地と考え、星野氏を心の師と仰いだ。星野氏を幼い頃から見続けてきたことは、私自身の人生ドラマをも味わい深くさせてくれたことを想うと、感謝があふれ出てくる。ジャイアンツを倒す闘志は、生きた「スポ根」を見せつけてくれたことや、引退後すぐに監督になり、ベンチでも戦う姿を見せてくれたことは、エンターテイメントとしてだけではなく、何かに取り組む姿勢のようなものも示してくれていたように思う。

print
いま読まれてます

  • この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け